はさみの発明者は「羊飼い」?鍛冶職人が支えたはさみの歴史

2019/06/03

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人間の暮らしの中で、「刃物」は必要不可欠な道具です。それを裏付けるように、古代の遺跡からは、石を叩く、または擦ることで作り上げた包丁や矢じりなどの石器が数多く出土しています。古代人たちは手製の刃物を用いて、狩猟採集、米や穀物の収穫を行っていました。人間が金属を使うようになったのは、約6000年前(紀元前3000年~前2000年頃)のことです。メソポタミア文明、中国の殷・周、インダス文明の人々は銅とスズの合金である青銅で作った道具(青銅器)を使い始めます。さらに鉄の冶金術が発明され、紀元前1400年頃になると、ヒッタイト人の間で本格的に鉄器が使われるようになります。鉄器は中国、エジプト、ギリシアにも波及。青銅より優れた鉄による武器、利器、工具などの普及は、軍の戦力を高め、森林の伐採を容易にし、農村の生産力を増すほか、人々の生活に大きな影響を与えました。

 

普段、当たり前のように使っている「はさみ」も、鉄器の生産が盛んになった紀元前1500年頃に登場したとされる道具です。現存する最古のはさみは、紀元前1000年頃、ギリシアで作られたというはさみで、これは和裁などに使う「握り鋏(U型)」と同じ元支点型。主に羊毛刈りに用いられ、ラシャなどの毛織物の毛羽立ちを切るはさみもありましたが、後者は大きなもので1mほどあったそうです。一方、紀元前27年の遺物とされる、帝政ローマ時代の鉄製はさみは、今の「洋ばさみ(中間支点型(X型とも))」と似たような形状でした。刃が短く丈夫に作られており、鉛や針金を切るのに使われたと考えられています。

どちらのはさみも「誰が発明した」という記録は残っていないようです。ただ、はさみの最初の用途は羊の毛を刈りとるためだったといいます。もしかしたら握りばさみを発明したのは、この頃の羊飼いだったのかもしれません。

 

鎌倉幕府の尼将軍・北条政子も使った「握りばさみ」

はさみが中国を通して日本に伝わったのは、6世紀頃だと考えられています。日本最古のはさみは、奈良県の珠城山古墳から出土品した、7世紀頃に作られた「握りはさみ」です。これは古代中国で使われていた、支点の部分が8字形に交わっているはさみと似たタイプで、大陸からの影響を受けたものだといわれています。当時の握りばさみは裁縫に用いられましたが、それは貴族階級のみで、中世までは庶民は裁断に小刀を使っていたと思われます。また、金属製以外に木製のはさみもあったそうです。

 

なお、鎌倉の鶴岡八幡宮には、源頼朝の正室・北条政子(1157~1225年)所用のはさみ(国宝・籬菊蒔絵硯箱に文具とともに納められている)が残されています。後白河法皇から頼朝が賜った菊の御紋入りの握りばさみ(U型)で、このタイプとしては日本最古のものです。形状は今の握りばさみと同じですが、これは化粧道具のひとつとして、髪の毛を切るために使われたものだと考えられます。

 

その後、日本では「握りばさみ(和ばさみとも)」が主流となりますが、X型のはさみも使われていました。奈良の正倉院には、銅にメッキを施した「金銅剪子」というはさみが収蔵されており、こちらも中国・朝鮮を経由して日本に渡ってきた、または中国からの帰化人が作ったものとされています。長さは22cmで、灯明の芯切り用のはさみだったようです(仏事の花切りばさみという説もあり)。

「種子島」のエポックは鉄砲伝来だけじゃなかった!?

戦国時代(16世紀半ば~17世紀前半)になると、ヨーロッパ人が日本各地を訪れ、さまざまな文化を持ち込むようになります。種子島もそのひとつで、天文12年(1543年)、台風の直撃を受けた南蛮船が漂着。乗船していたポルトガル商人から鉄砲を譲り受けます。島主である種子島時尭島は鍛冶職人・八板金兵衛に鉄砲の製作を命じ、金兵衛は国産の火縄銃を完成させます。その威力はすさまじいもので、それを知った織田信長は、鉄砲はいち早く戦に導入し、長篠の戦いで武田騎馬軍団を完膚なきまでに叩きのめしたのはつとに有名なエピソードです。

 

実は外国船が来た際、種子島には「洋ばさみ」も持ち込まれていました。乗組員の中にいた中国人の鋏鍛冶が「唐鋏」の製法を教え、鍛冶職人たちは鉄砲だけでなく、日本初となる国産のはさみ」も作ったと伝えられています。種子島のはさみは「種子鋏(たねばさみ)」と呼ばれ、切れ味がよく、実用的だということで、評判も高かったそうです。現在も伝統技術は受け継がれており、鹿児島県の伝統工芸品に指定されています。

 

徳川家康もはさみを持って(使って?)いたようで、久能山東照宮には、蝋燭の芯を切る中国系高麗はさみ「蜀台芯切鋏」、将軍家直属の御用鍛冶・藤原信吉制作の「握り鋏(家康の髪を整えていたという)」、ポルトガル人の献上品とされ、紙などを切ったと思われる「スペイン製剣型鋏」が収蔵されています。戦国時代が終わり、平和な時代が訪れると、いけ花用をはじめ、植木職人、呉服屋の需要も手伝って、はさみは多様化し、生産も盛んになっていきました。ただ、髪を切る、布や糸を切るといった日常の用途においては、握りばさみが主流だったようです。

 

なお、江戸時代におけるはさみの有名産地には、次のような地区・ブランドがありました。

 

京・小刀鋏鍛冶(現・京都市):1692年(元禄5)刊の『諸国買物調法記』(江戸時代の買い物ガイドブック)に数多く紹介されているように、江戸初期は京都が日本一の刃物の生産地として繁栄。鋏はもちろん、かみそり、包丁、木工かんな、鎌ほか、種類豊富な製品を製作。

播州握り鋏(現・兵庫県小野市):1783(天明3)年、大阪ではさみ造りの修行をし、帰郷した盛町宗兵衛を祖とする日本有数の握り鋏の産地。はさみの製造は今も続いており、日本を代表する握り鋏の名工を数多く輩出している。

越後三条鍛冶(現・新潟県三条市):冬場の雪で、農作業が行えない間に行った手工業が始まりだという。きめ細かく丈夫な上、鋭い切れ味を誇る、植木ばさみ、選定ばさみ、刈り込みハサミといった園芸用の鋏が有名。

美濃国関物(現・岐阜県関市):鎌倉時代末期、九州から関にやってきた「元重」と呼ばれる刀鍛冶が開祖だといわれている。その後、美濃伝鍛刀技法が発祥。江戸時代になり、刀の需要が減少すると、小刀・包丁・薄刃・剃刀・はさみなどの実用刃物が中心になっていった。

現在はドイツのゾーリンゲン、イングランドのシェフィールドと並ぶ、「世界三大刃物産地」に数えられている。

越前打刃物(現・福井県):室町時代初期、京都の刀匠・千代鶴国安が刀剣作りに適した地を求めて現在の越前市に来訪。農民のために鎌をつくったことが始まりだと伝わる。はさみ類をはじめ、包丁、まさかりなどを製作。

 

文明開化によって生まれた「江戸鋏」

明治維新後、武士の時代が終わると、文明開化の波が押し寄せ、人々の暮らしはがらりと変わりました。明治4年(1871)の「断髪令(ちょんまげの禁止)」、明治9年(1876)には「廃刀令(帯刀の禁止)」が公布され、洋装が奨励されるなど、服装や生活の洋風化が進みます。そのため、散髪用の理髪鋏が必要になり、また洋服を仕立てる羅紗という生地やはさみも輸入されます。ただ、羅紗は厚い毛織物で、それを裁断するための羅紗切りばさみは重く、日本人にとって使いにくいものでした。

 

このはさみを日本人向けに改良したのが、刀鍛冶職人だった吉田弥十郎(銘・弥吉。安政6年(1859年(1861とも))~明治34年(1901年))です。東京・千住の鍛冶屋に生まれた弥十郎は、12歳から刀鍛冶の修業を始めます。しかし、廃刀令で刀の需要はストップ。そこで弥十郎は刀鍛冶の技法を生かし、羅紗切り鋏を参考に独自の裁ち鋏を完成させたのです。このはさみは「江戸鋏」とも呼ばれ、弥十郎の技は弟子、孫弟子、曽孫弟子たちによって、現在も受け継がれています。このことから弥十郎は、日本人用裁ち鋏(洋ばさみ)を発明したと人物といっても過言ではなさそうです。

 

日本人が、時代や用途に応じたはさみを製造できたのは、やはり刀鍛冶の技術があったからだといえます。はさみをはじめ、職人たちが生み出すさまざまな刃物は、世界的にも高い評価を得ており、海外から買い付けに来る観光客も少なくありません。日本が誇る刃物製造の技、この先も継承していってほしいものです。

 

アルミニウムで「まだ見ぬ大発明」を支えたい。日本軽金属の誓いとは

はさみと同じ様に、今や当たり前となっているあらゆる道具は誰かの手によって「発明」されてきました。日本軽金属はアルミニウムという素材から様々なものを生み出し、次の誰かの「大発明」を支えたいと考えております。アルミニウムは、軽量で丈夫な上、加工性や耐食性、熱伝導性、電気伝導性、リサイクル性、など多くの優れた特性を持ち、社会で幅広く使われてきた素材です。我々は、長年にわたって培ってきたアルミニウムに関する豊富な知見を生かし、幅広い産業分野に多種多様な製品をお届けしてまいりました。アルミニウム製品の試作をお求めの際は、試作.comにお任せください。

 

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