2019/09/24
「一家に一台」「作れば売れる」といった時代は過去のものですが、エコブームにおける、洋服のリメイクやリフォーム、ハンドメイド市場の拡大なども手伝って、近年はミシンが再注目されています。今回は、そんなミシンの始まりを探ってみました。
後にミシンの発明につながる機器を生み出したのは、イギリスの牧師、ウイリアム・リー(1562年~1610年)です。当時はメリヤス編み靴下の需要が高く、手編みで生産されていました。彼は妻が毛糸を編むのを見て、機械編みを思いつき、1589年、9年の歳月をかけて、手動の編立機械を完成させたのです。リーの機械で作られた編み目は、最初のミシンの縫い目につながる「単環縫い(針1本だけで作られる縫い目。生地表面の縫い目は本縫い同様に見えるが、裏面は鎖目となっている)」になっていました。
リーはエリザベス女王に特許を申請しますが、許可は下りず、パリに渡って研究を続けます。しかし、そこでも賛意を得られることはありませんでした。彼の死後、技術と編機は弟ジェームスと親戚に引き継がれ、後にイギリスで製造。欧州各国に普及していったそうです。
ミシンの歴史は、編機発祥の地と同じ、イギリスで始まりました。ドイツ人のチャールズ・ワイゼンソールは、両先が針で中間に針孔のある針を用いたミシンを作り、1755年、イギリスで特許を取得しています。続いてロンドンの指物師トーマス・セントが、環縫いミシン(チェーンステッチミシン:1本の糸を連続して鎖状に縫う)を発明。1790年、英国特許1764号として認可された本機は、ミシンの構造原理として、公式に認められた最も古い記録となっています。しかし、セントのミシンは特許庁の衣料品部門に分類されたため、長い間、陽の目をみることはありませんでした。
彼の書類は83年後の1873年、英国人ニュートン・ウイルソンによって偶然発見されます。ウイルソンはその書類を頼りに、5年の歳月をかけてミシンを再現。そのレプリカは、1878年のパリ万国に出品されたそうです。
1790年代後半から1800年代半ばまで、欧米各国では数多くのミシンが登場します。ヨーロッパでは、1804年、イギリスのトーマス・ストーンとジェームス・ヘンダーソンが共同で刺繍装飾ステッチの改良を行い、特許を取得。1814年には、オーストリア・ウイーンのジョセフ・マディスベルガーが刺繍ステッチミシンの発明、特許を取得しました。マディスベルガーのミシンはオーストリア皇帝一世の賞賛を浴びましたが、構造が複雑で手作業が必要と実用性に乏しく、名誉は得たものの経済面で報いられることはなかったといいます。
フランスでは、1830年、リヨンでテーラーを営んでいたバーセレミー・シモニーが、当時流行していたコード刺繍(コードや紐などを布に置き、別糸で刺し止めて立体感を出す刺繍)の機械化を最初に行い、業務用として実用化し、特許を得ます。しかし、「ミシンのせいで、縫製職人の仕事がなくなるのではないか」と勘違いした人々が、ミシンを納入した工場に乱入。この機械を破壊してしまったのです。それでもシモニーは研究を続け、1851年に開催された大英博覧会で自作の改良型ミシンを披露するものの、評価は得られませんでした。
ただ、シモニーの発明は、フランスのコーネリー社、ドイツのリンツ社に受け継がれ、刺繍機の分野で優れた製品を生み出すことになるのです。
アメリカでも、1834年、発明家としても知られる機械工のウォルター・ハントが2本糸による、ロックステッチを発明します。これは上糸・下糸のある本縫いミシンの元祖となりますが、ハントは実用化するつもりはなく、特許出願権も他人に譲渡してしまったそうです。
また、1844年には、回転リンクに歯を取り付けた布送り装置を開発したアレン・ウイルソンがナザニエル・ウイラーと共同して、「ウイラー&ウイルソン式特殊型」の基礎を作ります。ウイルソンは1851年、ウイラー&ウイルソン会社を設立。その後はアメリカでも有数のミシン製造会社となります。
初めて実用に値する完全な本縫ミシンを発明したのは、アメリカのエリアス・ハウです。「先端に穴のある針を使用」「二重縫いを可能にするボビンを布の下に設置」「布を自動的に送る」という、現代のミシンとも共通する特徴を備えたハウのミシンは、1846年にアメリカ合特許を取得します。なお、1867年、ミシンの発明に対し、彼はナポレオン3世からレジオンドヌール勲章を送られました。
ハウの「針の先端に糸通し穴を開ける」という画期的なアイディアは、夢から生まれたというエピソードが残っています。ある日、ハウは野蛮な国の王のため、24時間以内にミシンを作らなければ処刑されるという夢を見ます。彼は必死で作ろうとするが完成できず、兵士たちの元へ連行されてしまいます。その時、兵士たちが持つ槍の穂先に穴が空いていることに気付いたのです。「これだ!!」と思ったハウは先端に穴のある針を作り、それが完成につながったといいます。
1850年には、アイザック・メリット・シンガーがウォルター・ハントの協力を得て、ミシンの改良研究に着手。翌年、I.M.Singer社を設立すると、現在とほぼ同じ構造を持つ「綻縫式ミシン」の特許を取得し、1853年には第1号機(足踏み式の実用ミシン)を発売します。1855年には海外進出開始し、パリ万国博覧会で最優秀賞受賞。シンガーはその後も発展を続け、現在も老舗ミシンブランドとして知られています。
日本に初めて持ち込まれたミシンには諸説ありますが、安政元年(1854年)、黒船再来航の時、マシュー・カルブレイス・ペリー提督(1794年~1858年。アメリカ海軍軍人)が、徳川幕府に贈った献上品の中にあった「Sewing Machine」だというのが有力です。このミシンは、ウイラー&ウイルソン社の製品で、13代将軍・家定の御台所・天彰院敬子(篤姫)にプレゼントされます。なお、彼女は日本人として初めてミシンを扱ったと人物だといわれています。
また、万延元年(1860年)、「日米修好通商条約」批准のため、勝海舟を艦長に、遣米使節団が咸臨丸でアメリカへと向かいます。その時の通訳を務めたジョン万次郎(中浜万次郎)が土産として持ち帰ったのは、写真機と手廻しミシンでした。なお、興味深い話として、慶応4年(明治元年・1868年)、幕府開成所教官・遠藤辰三郎が「西洋新式縫製機械」として、ミシンの教授について当時の新聞に通達を出しています。そこには「幕府は外国からミシンを取り寄せ、横浜の外国人に使い方を習った。技術を学びたい者があれば申し出て欲しい。また、仕立てものがあれば何でも安く引き受ける」と書かれており、意外にも幕府がミシンの普及に努めていたことがうかがえます。
明治維新以後は、文明開化における欧米化も手伝って、洋装する人が増えていきました。軍隊をはじめ、警察官や鉄道員の制服も大量に必要となったため、ミシンの需要が高まるとともに、独自の技術を用いた日本製のミシンも誕生します。ちなみに「Sewing Machine」が、日本でなぜミシンになったかというと、「Machine(マシン)」が「ミシン」に聞こえたたからだというのが定説になっています。
いつの間にか、家庭にとって「当たり前」の存在になったミシン。そんなミシンには「ミシン蝶番(ちょうずかい)」という金属のつなぎ目が使われており、その多くはアルミ製です。このように、当たり前の風景を形作る製品の中にはアルミニウム製品が使われている場合が多くあります。日本軽金属はアルミニウムに関する豊富な知見で、多くのお客様に様々なアルミニウム製品をお届けしてきました。アルミニウム製品をお求めの際は、我々にお任せください。
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