2019/10/07
では、長さを測る道具とは何でしょう?
それは「ものさし(物差し。物差・物指とも)」です。こちらの解説を読むと、「長さを測る道具。通常は竹、木、プラスチック、金属の細長い物体に長さの目盛をつけたもの」「直線を測る直尺をはじめ、巻き取り可能な「巻尺」、折りたためる「畳尺(折れ尺ほか)」などが使われている」とあります。
とはいえ、文房具店に行くと、「定規売り場」はありますが、「ものさし売り場」は見当たりません。つまり、定規が「長さを測り、線を引く」という二役を担っているといえます。本来、「定規」と「ものさし」は別のものではありますが、今回は便宜上、定規をものさしとして話を進めることにしましょう。
人類はかなり古い時代から、身の回りにあるもの、起こることを計測していたようです。たとえば、新石器時代後期から青銅器時代(前2500~前2000頃)にかけて造営されたイギリスの「ストーンヘンジ」ですが、この中のひとつが夏至の太陽の位置を示していると考えられています。とはいえ、祭祀場、天文台説、礼拝場などの諸説があり、何に使われたかはっきりとはわかってはいません。ただ、何らかの方法で計測した太陽の動きを、ストーンヘンジに示した可能性はあります。そう考えると、夏至の日を確認するために用いられた定規だとも考えられるのではないでしょうか。
ストーンヘンジが作られた同じ頃、チグリス・ユーフラテス川流域に栄えたメソポタミア文明(紀元前3000年ごろ成立。四大文明のひとつ)は、楔形文字、六十進法が用いられ、灌漑農業、暦・占星術、法典などが発達したシュメール人による都市国家でした。度量衡(度=長さ、量=体積、衡=質量)を統一していたこともあり、メソポタミアでは大麦や葦をはじめ、棒、稲穂、牛の角など、身体では指や腕などを単位として、様々なものを計測・計量したことがわかっています。
バビロン第1王朝、ハンムラビ王(紀元前1792年~1750年)のレリーフ(ルーブル美術館蔵)には、太陽神シャマシュが、王に葦のものさしと巻き尺に象徴される王権を与える姿が描かれています。また、ウル第3王朝のウル・ナンム(紀元前2113年~2096年)が、月の神ナンナルから直尺と巻尺を渡されているレリーフも残っています。このことからも、メソポタミアでは当たり前のように定規が使われていたと考えられます。
現在、長さの単位は、1960年の国際度量衡総会で採択された「メートル(m)」に統一されており、質量はキログラム(kg)、時間は秒(m)となっています。しかし、その以前の長い歴史の中では様々な単位が作られ、日本では長さの単位として「尺(=30.3cm)」が使われていました。この単位は、反物の長さ(別に鯨尺(1尺=37.8cm)もあり)や建築業界(曲尺(かねじゃく)=30.3cm)など、一部の分野で使用されています。なお、鯨尺の名は、仕立てに用いる物差しを鯨のヒゲで作ったことに由来しているそうです。
この「尺」という単位は、古代中国の王朝・殷(?~紀元前1122年または1027年 。商ともいう)時代の遺跡からものさしが出土していることから、この頃、すでに存在していたとされています。1尺の長さは17.3cmで、これは女性が手を広げたときの親指の先から中指の先まで、または中指から手首までの長さと考えられています。その後、東アジアで広く使われましたが、1尺の長さは時代や地域によって異なりました。なお、紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げた始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)は、各地でまちまちだった秤やものさし、升の規格をそろえ、貨幣も統一しています。
日本にも西アジアから中国、朝鮮半島を経て「単位」が伝搬します。世界最古の木造建築物として、法隆寺(世界文化遺産)が607年頃に完成したことから考えると、造営時にものさしが使われていたことも十分考えられます。なお、法隆寺建立に際して、技術や道具を伝えたとされる「厩戸皇子(聖徳太子)」が、「大工の神様」と呼ばれているのをご存知ですか。厩戸皇子といえば、推古天皇の摂政で、「遣隋使の派遣」「冠位十二階、十七条憲法の制定」をはじめ、「仏教の興隆」などにも尽くした人物。それが「大工の神様」となったのは、厩戸皇子が「法隆寺を建立した」こと、大工道具の「曲尺」の単位を1尺(30.3cm)に統一し、加えて長さを測る、勾配を出すなど、計算尺のようにも使える「差し金(指矩ほか様々な表記がある)」を考案したからだそうです。
日本で初めて、共通の長さを単位として定めたのは藤原京の時代だといわれ、尺・寸(尺の10分の1)を用いていました。701年には、唐から伝わった「小尺」、土地の測量に用いる「大尺(小尺の1.2倍。高麗尺とも呼ばれる)」が『大宝令(刑部親王・藤原不比等らが中心となって編集した法令集)』で単位として定められ、制度としての「尺貫法(長さの基準を尺とし、質量の基準を貫とする度量衡システム。秦の時代に全国的に統一、漢の時代に体系化)」が確立されます。藤原京や平城京から出土したものさしから、小尺の長さは約29.6cmだったことが分かっています。また、翌年の702年には標準となる定規が全国に配られたそうです。
戦国の三傑のひとりである豊臣秀吉は、租税賦課の基礎条件を明確にするため、天正 10年 (1582年)から慶長3年 (1598年)年かけて、全国的な検地を行いました。これは「太閤検地」と呼ばれ、従来貫高で示されていた田畑を石高(生産高)で示すように改めたことから「天正の石直し」ともいわれています。この時、秀吉は地方によって違っていた長さの基準を統一。長さの基準を定めるためのものさし、「太閤検地尺」を作りました。これによって、1寸は3.03cm、1尺が30.3cmに決められたのです。
秀吉の死後、豊臣家を滅ぼして天下を統一した徳川家康は、江戸に幕府を開きます。幕府は度量衡統一のため、江戸と京にそれぞれ枡座と秤座を設置しますが、ものさし(長さ)に対しては放任状態。そのせいで、曲尺、鯨尺、呉服尺ほか、職種や地域で異なるものさしが使われ、混乱することもあったようです。「度量衡法」施行により、尺貫法が完全に統一されたのは、明治26年(1893年)のこと。この時、1尺が30.3cmと決められました。ただ、明治政府は、それ以前の明治18年(1885年)、メートル条約(メートル法の統一と普及を目的に、1875年、パリで締結された条約)に加盟。そのため法令施行後は、計量法成立の昭和33年(1958年)までは、メートルと尺が併用されることになりました。
尺貫法の統一によって、地域や職種を超えて共通の指標ができました。近代以降モノづくりの世界では、その指標の中でミリメートル、さらにはマイクロメートル(ミクロン)の単位でも精度が要求されることが増えてきました。Shisaku.comは、図面を描くくことに慣れていないお客様と二人三脚で細かなところまで設計のお手伝いをし、お客様の作りたい製品を実現させていただきます。製品化の親悩みがありましたら、我々にお任せください。
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