人々の暮らしに欠かせない「窓」についての基礎知識

2019/10/15

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一戸建て、集合にかかわらず、「窓」はほとんどの住宅についている壁面や屋根に設けた開口部(に付けられた建具)です。普段、何気なく開け閉めしていますが、採光や換気をはじめ、 断熱(熱取得)、防犯、防音、屋外の景色を室内に取り込み眺望を楽しむほか、様々な役割をもっています。また、窓は住む人と外界(自然・環境ほか)の境界で、屋内に居ながら外の様子を知る機能を持っているともいえます。

 

窓は建築基準法によって設置や大きさが決められており、居室(居住・執務・作業など、目的のために継続的に使用する部屋。リビングやダイニング、和室など)には窓を設け、採光(自然光)、通風をしなくてはならないという規定があります。用途地域によって数値は変わりますが、住宅の居室には床面積の1/7以上の採光有効開口が必要だと決められています。

 

人々の暮らしにとって、このように窓は必要不可欠なものといえます。そこで、「窓がどのような過程で生まれ、進化していったのか」「昔の人はどんな窓を使っていたのか」など、窓についていろいろと調べてみました。

 

清少納言や紫式部も持ち上げた?「寝殿造り」の「蔀戸(しどみど)」

窓の役割といえば、先述したように「採光」や「換気」が基本です。後期旧石器時代から造られ始めた「竪穴式住居」には、すでに光を採る、煙を出すための開口部が設けられていました。ただ、穴を空けただけのものだったので、風雨を防ぐために庇が付けられてたそうです。

 

時代が下ると屋根が組まれて、竪穴式住居は小屋のような形状になり、建物自体も大きくなります。仏教が伝来した飛鳥時代に建てられた寺院建築の窓には、採光、通風、防犯を目的とする「連子窓(れんじまど)」が設けられました。これは、四角い窓枠のなかに縦あるいは横に連子格子(方形 (または菱形) 断面の棒 (連子子:れんじこ) )を並べたもの。古い時代は連子子の間隔が広くとられているのが特徴です。

 

平安時代には、上級貴族が住む「寝殿造り」という建築様式が生まれ、この中で日光や風雨を防いだ建具が「蔀戸(上下2枚に分れ、上半分だけ上げるものは「半蔀」という)」です。これは板の両面に格子を組み、長押から吊上げる板戸で、金物で釣り上げて開きました。大きな板を上げ下げするわけですから、開け閉めは大変だったことでしょう。また、開口部の大きい寝殿造りの冬は、とても寒かったといわれていますが、高温多湿な夏を快適に過ごすことが重視されていた日本では、風通しの良い蔀戸が主流になったと考えられます。

 

その一方で、蔀戸を開くと、庭全体を眺めることができました。四季折々の草木が植えられ、贅を尽くした美しい庭園を愛でることは、寝殿造りならではの楽しみだったのでしょう。

 

現代家屋の窓は「書院造り」がルーツ

現在のような窓が登場するのは室町時代中期のことで、銀閣寺の「書院造り(武家の住居として発展したため「武家造り」とも呼ばれる)」には、そのルーツといえるものが残っています。それまでの寝殿造りとは異なり、書院造りの建物には床に畳が敷かれ、襖といった引き違い戸で部屋が仕切られていました。そこには家族の部屋、客間、書院などが設えられており、いわゆる和風住宅の原型となっています。

 

書院造りの窓は、読書用の机が置かれ、書物や筆、硯・文鎮を置く棚なども設けられた約二畳の「書院」にありました。正面には採光用の「書院窓」が付けられ、当時の人々は、その光を利用して書物を読んだのです。書院窓にはめられていたのは、木枠の片面に和紙を張った「明かり障子」で、閉めたままでも採光が可能でした。なお、書院窓は換気にも使われたようです。

 

「障子窓」からガラス窓への変遷

和紙が高価だったため、明かり障子を付けられるのは武士や裕福な商人が中心でした。江戸時代半ば、紙作りが盛んになると庶民の間にも少しずつ広まっていき、様々な大きさや形の「障子窓」が登場します。たとえば与力(同心を指揮する江戸時代の役職)の家に設けられ、横に取り付けられた太い格子が特徴の「与力窓(武者窓ともいう)」、天井にあり、引綱で開閉し、台所などの採光や煙出しに使われた「引窓(大和窓とも呼ぶ)」などが有名で、茶室の「突き上げ窓(突上窓)」は、空を観賞するために使うこともあったそうです。

 

また、長崎の出島にあったオランダ商館ではガラス窓も使われていました。ただ、とても高価で貴重な輸入品だったので、ガラス窓を住居に用いたのは、一部の裕福な大名や豪商に限られたようです。明治維新後、文明開化の波が押し寄せたことから、迎賓館をはじめ、公共施設、華族の邸宅などでは、窓に輸入板ガラスが使われるようになります。間もなく国内にもガラス工場が起こりますが、板ガラスの生産にまでは至らず、ビンや食器類の生産に止まっていました。当時の技術者たちの努力もあって、明治後期になると、国内でもようやく安定した板ガラスの生産ができるようになりました。また、板ガラス製造の世界的な技術革新も手伝って、ガラス窓は国内に広がっていきます。

 

アルミサッシの登場と普及

ガラス窓は、窓枠に「サッシ(サッシュとも呼ぶ)」という建材を使うのが一般的となっており、古くは木製やスチール製が多く使用され、アメリカではブロンズサッシが用いられていました。1920年代になるとアルミ合金製のサッシが登場し、ドイツではジュラルミン製のサッシが使われていたそうです。その後、スイス、アメリカ、カナダでも採用されるようになり、世界的に普及します。

 

日本で初めてアルミサッシが使われたのは、1931年(昭和6年)、村野藤吾(建築家。早稲田大学卒。代表作に世界平和記念聖堂、日本生命日比谷ビル、そごう百貨店、箱根プリンスホテルなどがある)が設計した「森五商店東京支店(現:近三ビル)」です。ただ、現在のアルミサッシとは異なり、鋼製サッシの枠、框にアルミを被せた複合構造のものでした。第二次大戦後の1952年(昭和27年)には、日本総合銀行(現:さくら銀行。設計は建築家・前川国男。代表作に東京文化会館・東京海上火災ビル本館・東京都美術館など)に、国産初のアルミ押出成形法によるアルミサッシが採用されます。戦後の復興と共に、昭和30年代になると、ビル用では鋼製からアルミサッシへの置換えが始まりました。というのも、スチールは硬度が高くて丈夫なのですが、押出加工による1回の工程で、複雑な断面の形状を正確に製造できるアルミの方がサッシの材料としては優れていたからです。

 

住宅の増加とアルミサッシの一般化

同じ頃、一般住宅では、まだ木製サッシが主流でした。しかし、1960年(昭和35年)頃から、多くのメーカーがアルミサッシの製造を開始。1960年代半ばには、住宅用サッシの普及が始まりました。さらに1970年代に入ると公団の建築ラッシュなども手伝って、アルミサッシが一気に広まります。軽量でさびにくく、隙間風を防ぎ、製造面では加工の自由が利くアルミニウムは当時の建築状況に最適だったのでしょう。

耐久性が高く、軽量、安価であるアルミサッシは、現在も日本の多くの窓で使われています。近年は断熱・気密性の高い樹脂を室内側に、室外にアルミを使用した「複合サッシ」なども登場しており、アルミサッシの多様化が進んでいます。

 

グループ会社の理研軽金属工業ではアルミサッシを生産しており、Shisaku.comとも協力体制を敷いています。社外の加工パートナーだけではなく、グループ内の材料調達等を通し、お客様の様々なご要望にお答えができるのがShisaku.comの強みです。製品化のお悩みがありましたら、是非、我々にお任ください。

 

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