高いところへ登るために生まれた道具のルーツは「梯子」?脚立の発明と歴史

2019/10/31

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それぞれ形状は異なりますが、梯子をはじめ、脚立や階段などは高いところへ登るためになくてはならない道具です。にもかかわらず、これらをいつどこで誰が発明したか、詳細はわかっていません。ただ、一般的に使われている2本の長い木の間に、足をかけるための横木を一定間隔で取り付け、これを対象に寄せかけて昇降する梯子(猿梯子ともいう)は早くから使われていたようで、たとえば、高倉にかけた絵が銅鐸に残っており、弥生時代には存在していたことがわかっています。

 

なお、弥生時代の遺跡である静岡県の「登呂遺跡」や「山木遺跡」からは、1本の丸太をえぐって、足をかけるところを作った「丸木梯子」が出土。高床式住居や高倉用のはしごとして使われていました。また1本の木を縦割りにし、その間に横木を入れた「棒梯子」、麻やシュロで作った2本の縄の間に横木をつけ、縄の先に鉤(ものをかけるために使う、先の曲がった金属製の器具)をつけた「縄梯子」なども、必要に応じて作られたようです。

 

その後も梯子は使われますが、同時に安定性の高い「階段」も作られるようになります。中でも有名なものは、4世紀後半、出雲大社に建てられたという高さ48mの巨大神殿と、それに続く長さ約109mの階段です。この模型は「古代出雲歴史博物館」で目にすることができますが、日本人は古代から、高所に登るための工夫や高い技術力を持っていたことがうかがえます。

 

なお、梯子は高いところへ登るためだけでなく、軍事にも用いられました。中国、戦国時代初期の思想家・墨子(生没年不詳。紀元前5世紀後半~4世紀前半)の書『墨子』には、「技術者の元祖」「大工の神様」といわれている公輸盤(春秋時代末期の人で魯の名工)が、城壁を乗り越えるために台車の上に折りたたみ式の梯子を搭載した「雲梯」を発明したとあります。

 

また、日本の戦国時代には、攻城戦(敵の砦や城、城壁都市を奪うための戦闘)において、「継橋(石垣や堀を越えるための、折りたたみ、または組み立て式の梯子)」、「投げ橋(石垣や堀などに投げ、端を引っ掛けて登るための梯子)」、「行天橋(押手を木の囲いで守りながら進み、城壁直前で渡し橋を架ける兵器)」といった特殊な梯子が用いられたそうです。

 

もともとは馬の鞍かけだった?「脚立」のはじまり

「脚立」は短い梯子を八の字に合わせ、その上に板をのせた、持ち運びできる踏み台状の道具です。一般家庭では主に高い所のものを取る、造園業では植木の手入れをする、建築現場で使うなど用途はさまざまで、目的に応じて高さや素材、形状が異なります。

 

脚立=きゃたつの語源は中国語の「脚踏(足で踏む、足をかける)」「脚榻子(寝台)」からきているそうで、室町時代から使われるようになったといわれています。「うま」「鞍掛」「踏継」「踏台」など多くの呼び名があり、中でも「鞍掛」の名の由来は、もともと外した鞍を掛けておく台が、脚立として利用されるようになったためだそうです。

 

当時の鞍掛の様子は、室町時代の1351年(正平6年/観応2年)に成立した『慕帰絵詞(親鸞の後継者、本願寺発展の基礎を開いた第3世覚如(1270~1351年)の伝記を描いた絵巻。西本願寺所蔵)』などで見ることができます。

 

作庭や植木の剪定に欠かせなかった三脚の脚立

使われ始めた頃の脚立は、台形の箱のような形状、板に4本の脚が差されているもの、また細い角材を櫓状に組んだものでした。また、高いところで仕事を行うため、大工や左官、庭師や植木職人が使う高さ4~5尺(1.2~1.5m)の脚立も登場します。

 

江戸時代になると、品川の御殿山、飛鳥山、隅田川周辺に花見の名所が、また大名や旗本・御家人の屋敷に広大な庭園が造られたことなどがきっかけで、江戸では園芸が盛んになります。そこで庭の維持・管理、植木(庭木)の栽培・販売で活躍したのが、江戸とその近郊に住んでいた植木屋や植木職人です。彼らが庭の手入れをするために、脚立や梯子を使ったことは想像に難くありません。なお、当時の脚立や梯子は木製や竹製が多く、大工の場合は自分で作る、または「梯子屋」という専門職人に頼んでいたそうです。

 

ちなみに造園や園芸においては、「三脚」の脚立を使用します。「四脚」の方が安定しているように感じますが、地面(土)には凹凸があるため、平地で使う事が前提の四脚ではぐらつきが生じるなど不安定になるからです。また剪定などの作業を行うには、木に接近できる三脚が安全だということもあります。四脚では樹木から離れたところにしか立てられないので、外側の剪定はできても、内側の枝は剪定しにくくなります。そのため、現在も造園、園芸の職人は三脚を使っています。

 

脚立は江戸前の釣り人たちの愛用品?

脚立は高いところへ登る、高所で仕事をするのみならず、なんと釣りでも使われていました。それは「脚立釣り」という手法で、海に立てた高さ2~2.5mの脚立に座り、主にアオギスを釣るというもの(アオギスは船影に敏感だったので、一本釣りが適していたからだという)。1723年(享保8年)に書かれた、日本最古といわれる釣り専門書『何羨録(陸奥国黒石藩3代当主津軽采女著)』に記録されていることから、八代将軍・徳川吉宗の時代には行われていたと思われます。

 

当時の日本は平和な世が続き、大名や旗本にも余暇が生まれ、江戸湾での釣りが流行していたといいます。それが庶民の間にも広まり、江戸時代後半になると、脚立釣りは初夏の江戸の風物詩となり、浮世絵にも描かれるようになりました。

 

脚立釣りは明治に入っても続きましたが、戦後、東京湾の埋め立てが進み、アオギスが少なくなったこともあり、昭和40年代にはら廃れてしまったそうです。ただ、2011年(平成23年)、千葉県木更津市で試験的に脚立釣りが復活。現代の釣り愛好家たちの注目を集めました。

 

軽くて使いやすいアルミニウムの脚立へ

古くは木や竹などで作られていた脚立ですが、最近は金属製の製品が多く、軽くて丈夫で持ち運びの便利なアルミニウム製が主流になっています。アルミニウムの梯子や家庭用の脚立が作られるようになったのは1960年代で、70~80年代に入ると、建築現場用の脚立、園芸用の三脚ほか、さまざまな製品が登場します。

 

アルミニウムの特性である「軽い」「強い」「耐食性が高い」「加工性に優れる」という点は、造園や園芸、建築や土木といった屋外で行う作業に用いる道具に最適。また、商品を軽量化できるため、子どもや女性、お年寄りなど、体力に自信のない人でも扱いやすい脚立を作ることができます。三脚、四脚を含む、アルミニウムの脚立は日々改良を重ねており、さらに安全で使いやすいものになるでしょう。

 

「暮らしを支える金属」としてのアルミニウムの可能性

アルミニウムは軽量かつ丈夫であり、耐食性やリサイクル性にも優れている金属です。日常の身近な場面でも多く使用され、まさに「暮らし支える金属」と言えるのです。日本軽金属グループはアルミニウムに対する豊富な知見と技術を土台に、単なる素材メーカーを超えて幅広い産業のお客様を支えることで、一人でも多くの方の「暮らし」の向上に貢献することを目指しております。

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