[視える」を提供したイノベーションとは?「メガネの始まり」の歴史

2019/11/25

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視力矯正器具は近い将来、ほとんどの日本人の必需品に?

近年日本は、「近視大国」といわれるくらい、近視率が高くなっています。「2017年度学校保健統計調査(文部科学省)」によると、裸眼視力1.0未満の割合は小学生で約32%となっており、ほぼ3人に1人は視力が低下しています。これが中学生だと約56%。半数以上の生徒が視力に問題を抱えているそうです。また、この数字が高校生60%以上なるといい、子どもの視力低下の割合は年々増しています。最近はメガネよりコンタクトレンズで視力矯正する人が多いため、近視か否かを外見で判断するのは難しいですが、日本人の半数以上が視力に問題を抱えているのは間違いなさそうです

 

近視の原因には、大きく分けて2つの理由があります。ひとつは、親が近視だと子どもにも遺伝するという説。もうひとつは、パソコンでの仕事、本や新聞を読む機会が多いなど、目を使う時間の長い生活や環境が原因だとするものです。また、近年はコンピューターゲームや長時間のスマホ利用はもちろん、屋外活動時間の減少も近視の増加に関係しているとされています。

 

このままいくと、日本人のほとんどが近視になってしまいそうですが、先述のように視力は矯正器具で補うことができるため、それほど不便に感じることはないと思われます。

 

では、メガネやコンタクトレンズがなかった時代、近視や老眼の人はどうやって生活していたのでしょうか?

 

皇帝ネロが使ったレンズは「エメラルド製」!?

目を酷使する現代人と比較して、昔は近視の人が少なかったといいます。とはいえ、中には近視や遠視、乱視に悩む人はいたでしょうし、年をとれば多くの人が老眼になったことでしょう。そのため、古代ロ-マの学者は老眼になると、若い助手に本を読ませたり、口述筆記をさせて視覚をおぎなったようです。

 

「レンズ」そのものの発見は古く、古代から、ある種類の石がレンズとして使われていました。アッシリア帝国(アッシリア最古の都市)の古代都市・ニネベの遺跡からは、現存する中で最古とされる、紀元前700年頃のレンズが出土しています。紀元前700年頃のレンズが出土しています。これは研磨された水晶の平凸レンズ(一面が平らで他面が凸面になっているレンズ)ですが、視力を矯正するものではなく、太陽光を集めて火をおこすため(火とりレンズ)に使われていました。当時レンズは数も少なく、貴重なものだったと考えられます。また、古代のロ-マ、中国でも水晶やガラスで作った凸レンズを作っていたとあり、紀元前8世紀の古代エジプトのヒエログリフには「単純なガラス製レンズ」を表す絵文字が残っているそうです。

 

時代は下り、古代ローマのストア派哲学者であり、劇作家、政治家、古代ローマ皇帝ネロの家庭教師としても知られるセネカ(ルキウス=アナエウ・セネカ。小セネカとも。紀元前5頃~65年)は、年老いてから書物が読みにくくなった時、「水球儀」に文字を透かして拡大したようで、「水を満たした球形のグラスやガラス器を通せば、はっきり見ることができる」という記述があるといいます。また、紀元1世紀頃、古代ローマの将軍・博物学者であるプリニウス(23~79年)が、「ネロは闘技場で剣闘士たちの闘いを観戦するのに、エメラルドのレンズを用いていた」ということを書き残しているそうです。ネロのレンズは視力を補うためといわれていますが、光から目を守る、サングラスの役割を果たしていたという説もあります。

 

メガネの基礎を築いたイスラムの科学者たち

視力を補正するレンズを発明したのは、中世アラビアの発明家・技術者、アッバス・イブン・フィルナス(810~887年)ではないかといわれています。ファルナスは翼のような装置を作り、飛行実験を試みたことでも知られ、彼のデザインはレオナルド・ダ・ビンチに引き継がれたともいいます。フィルナスの研究を紹介する、17世紀、北アフリカの歴史家アフマド・ブン・ムハンマド・マッカリー(1591~1632年)の著述によると、「透明なガラスの製造方法を考案し、メトロノームのようなものを作成した」とあり、これらガラスにかんする記述が一部の学者に「水晶を磨いて原始的な凸レンズ(補正レンズ~リーディング・ストーン)を作成したのでは」と解釈されているようです。

 

適度にカットしたレンズによって、視力を矯正できる可能性を最初に示唆したのは、アラビアの数学者、物理学者、天文学者として知られるアルハーゼン(965頃~1039年。イブン=アル=ハイサムのラテン語名)です。彼は光についての研究をまとめた自著『光学の書(1021年)』の中で、物体が反射する光が目に入ることで、人はその物体が見えることを証明。目から視光線が放たれて物が見えるとするユークリッド(紀元前 300年頃のギリシアの数学者。13巻から成る『原本』の著者として有名)やプトレマイオス(生没年未詳。英語名トレミー。2世紀ごろのギリシャの天文・地理学者。天文学書『アルマゲスト』を著し、天動説を完成させた)の説を覆すなど、人の眼の構造や光の屈折についての研究を書き残しました。また、カメラの原型「カメラ・オブスクラ」を発案したのもアルハーゼンで、彼は「近代光学の父」と称されています。

 

12世紀末、ヨーロッパに伝わり、ラテン語に翻訳されたアルハーゼンの著書は『光学宝典』と呼ばれ、多くの人に読まれました。彼の光学についての科学的な研究方法は、ロジャー・ベーコン(1220頃~1292頃。イギリスの哲学者・自然科学者。光学の研究でも知られ、光の屈折を利用し、数々の光学器具を案出。主著は『大著作』 )、後年のヨハネス・ケプラー(1571~1630年。ドイツの天文学者。火星の公転軌道を決定。またケプラーの法則の確立、ケプラー式望遠鏡の考案、天体表などを発表した近代天文学の先駆者)など、西洋の科学者に大きな影響を与え、各地でレンズの開発が盛んになります。

 

最初のメガネは老眼鏡?

ものを水滴やレンズ状のガラスなどに透かすと大きく見えることは、先述のように早い時代から認識されていましたが、ガラスの一部を利用して、視力障害を是正するというアルハーゼンのアイデアが実現されたのは、13世紀後半のことです。初めて使われたとされるのは石英、または水晶でできた平凸半球型のレンズで物体を拡大して見る「老眼鏡」。レンズがひとつ付いた、今でいう虫メガネのような形をしており、本の上に直接のせて使用されていたようで、その当時、優れた技術を持ち、透明度の高いガラスを製造していたことから、イタリアのベネチアで作られたのではないかといわれています。ただ、発明者については諸説ありますが、はっきりとはわかっていません。その頃の書物には「老眼鏡は便利なもの」という記述が残っていますが、良質なレンズを作ることはまだ難しく、水晶や緑柱石といった鉱石を磨いて製造したため大変高価なものだったそうです。そのため、老眼鏡を使えたのは、上流階級や聖書を研究する修道士だったといいます。

 

その後、初期の老眼鏡は、両目で見られるよう、二つのメガネを柄のところでひとつにした形状になります。この頃のフレームは、鉄や真鋳、動物の骨や皮、木などで作られており、手でメガネを持つか、鼻の上に乗せて使いました。14世紀半ばには、両眼のメガネ(リベットメガネ)を掛けた修道士の姿がトンマーゾ・ダ・モデナ(イタリアの画家。1325頃~1379年)によって描かれています。ただ、手で持つと一方の手がふさがることもあり、長時間使うのには不便だったそうです。とはいえ、この老眼鏡は、本を読んだり、写したりする高齢の学者や修道僧には歓迎されました。そしてイタリアの商人の手により、ドイツをはじめ、ヨーロッパへ広がっていったのです。

 

15世紀半ばになると、近視用の眼鏡(凹レンズ)も登場し、メガネ着用者の数が増えていきます。その理由のひとつは、1450年頃、ドイツの技術者グーテンベルク(ヨハネス・ゲンスフライシュ・グーテンベルグ。推定1394~1499年)が活字印刷機を開発し、印刷された聖書が普及したこと。聖書をはじめ、庶民が読書をするようになったことで、メガネの需要が増加したと考えられています。また、ベネチアでもガラスの品質が向上し、レンズが比較的に安く大量生産できるようになると、各地に眼鏡職人も現れました。なお、16世紀になると、耳にかけられるメガネも登場。1596年、エル・グレコ(1541~1614年。スペインの代表的画家)の「ゲバラ枢機卿の肖像画」には、輪にした紐を耳にかけるタイプのメガネ(西洋ではスパニッシュイタリアン型と呼ばれる)が描かれています。リベットメガネ、つる(テンプル)のついたメガネが登場したことで、革や鼈甲、水牛の角、鯨の髭に加え、鉄、銀、銅といった金属ほか、様々な素材が使用され始めました。

 

日本人のブレークスルー。メガネの「鼻あて」を作った功績

日本へ最初にメガネを伝えたのは、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(1506~1552年)だといわれています。1551年(天文20年)、彼は大内義隆(1507~1551年。周防(現在の山口県)の国主)にメガネを献上しましたが、残念なことに現物は残っていません。また、室町幕府12代将軍・足利義晴(1511~1550年)の持ち物であったとされるメガネが残されていり、これが現存する最古のメガネだとされています。なお、ルイス・フロイス(1532~97年。イエズス会のキリスト教伝道師)の著書『日本史』には、1574年、織田信長に会いに行ったフランシスコ・ガブラル(1528~1609年。イエズス会士)のメガネについてのエピソードが記されています。それによると、近視用のメガネをかけたガブラルたちを見て、見物客は「外国人には目が4つあり、うち2つは鏡のように輝いていて恐るべきもの」と言って、大変驚いたそうです。

 

初代江戸幕府将軍・徳川家康(1542~1616年)もメガネを使っていたようで、家康がかけたとされるメガネが静岡県・久能山東照宮に納められています。なお、武将たちのメガネは、すべて手で持って見るタイプです。

 

日本でもメガネが作られるようになったのは、江戸時代初期のこと。当時の長崎代官、末次平蔵(?~1630年)のもとで朱印船の船長をつとめていた浜田弥兵衛(生没年不詳)が、元和年間(1615~1623年)、オランダ領だった東南アジアで、視察のかたわらメガネの製造法を学んだことがきっかけです。帰国した弥兵衛は、その技術を長崎の職人・生島藤七(生没年不詳)に伝え、藤七はその後、南蛮人のガラス工が来たときも技法を習得したという話が、江戸時代中期の天文暦学家、西川如見(1648~1724年)が記した『長崎夜話草(享保5年(1720年)刊行。長崎の由来や貿易など、様々な事柄を書き留めた長崎見聞録』に残されています。

 

ただ、この当時のメガネは、日本人には合わなかったようです。というのも、西洋人は彫りが深く、鼻も高いので、メガネをかけてもレンズとまつ毛が接触しません。しかし、鼻が低く、顔がのっぺりしている日本人では、メガネが顔にくっついてしまいます。そこで、メガネがずり落ちないよう、鼻あて(今でいうパッド)が着けられるようになりますが、これを考えたのは日本人だといわれています。

 

17世紀末頃からは、眼鏡を売る店が京都、大阪、江戸に現れ、18世紀以降、日本製の眼鏡も増えていきます。レンズの本格的な国内生産が始まったのは、明治時代のこと。明治6年(1873年)、官命によりオーストリアのウィーン万国博覧会に参加した朝倉松五郎(現・アサクラメガネ創始者)が、レンズ製造技術を学んで帰国したことがきっかけでした。帰国後、朝倉は国内初の機械によるメガネレンズの製造を始めますが、これが今日のメガネ産業の隆盛につながっています。また、明治38年に創始者とされる増永五左衛門(明治~昭和の実業家。1871~1938年)が、農閑期の副業として、東京や大阪から職人を招き、福井市でメガネ作りを始めます。その後、活字文化の普及に伴い需要も増え、メガネ作りは福井市から鯖江市をまたがる地域に広がっていき、今も一大産地として有名です。

 

現在は、フレーム素材にもアセテートやセルロイドといったプラスチック素材、チタン、ニッケル合金、アルミニウムなどの金属系の素材が用いられるほか、軽くて丈夫なメガネが作られており、日本のメガネは品質面でも世界のトップクラスとされています。

 

参考文献

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