日本初のねじは〇〇に使われていた? 産業の塩、ねじの発明と歴史

2019/12/17

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しさく解体新書
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ものづくりの進歩に必要不可欠な「ねじ」の始まり

身近なところではペットボトルの蓋や電球など、ねじはあらゆるところで使われています。また、パソコンやスマートフォン、車や飛行機、船、宇宙ロケットまで、「ねじを使わない機械はない」といっても過言ではありません。

「ねじ」というと、ヘッドのついた「ボルト」状の部品(またはナットを含む)を思い浮かべることも多いですが、本来は、ヘッドを含まないらせん状の溝が切られた円筒や円錐部分のことを指します。ちなみに外側にねじ山のあるものを「おねじ(雄ねじ)」、内側にあるものを「めねじ(雌ねじ)」といいます。また、ねじの回転を用いて、水などを移動させるメカニズムも意味します。

 

◇ねじの主な役目

・締結・結合:部品と部品を締め付け、動かないようにつなぎ合わせる(必要に応じ、取りはずしも可能)。特に機械分野で最も多く使われている用途。

・計測(長さの測定):1回転当たり、決まった距離だけ進む特徴を利用して、マイクロメータなど、高精度な長さ測定などに利用。

・伝達:回転運動を直線運動に、小さな力を大きく変換し、伝達することが可能。

 

なお、近年は、単なる締結・結合を超える付加価値を備えた「特殊ねじ」が考案されるなど、ねじの利用分野はさらに広がっています。

 

ものづくりの現場において、必要不可欠な「ねじ」は、古代人が海で拾った巻貝を棒に突き刺し、回して外したことが紀元だといわれています。また、「樹木に巻き付いたつるが枯れ落ちた後、らせん状の跡が付いているのを発見した」「粘土を引き伸ばして巻くと、らせん状になった」ことからねじができたといった説もあるようです。

 

ねじの原理を利用した「アルキメデスのらせん」

ねじの原理を用いた最初の造形物は、紀元前250年頃(紀元前280年頃とも)に作られた「アルキメデス(紀元前287頃~紀元前212頃。古代ギリシアの数学者・発明家)の揚水ポンプ(アルキメデスのらせんとも)」だといわれています。これは傾けた筒の中にらせん状のスクリューをぴったりはめ、ハンドルで回転させて連続的に水を汲み上げる木製ポンプで、船底にたまった水の排水に使われました。また、同様の揚水ポンプは古代エジプトでも用いられ、ナイル川の灌漑用として長い間使用されたそうです。なお、このポンプは17世紀半ばに中国から日本にも伝わり、1637年(寛永14)、佐渡金山の排水に導入。「竜尾車」「水上輪」「竜桶(たつとい)」などと呼ばれ、その後は農業用にも普及しました。

 

ねじを使った道具としては、ぶどうの実から果汁を、ナタネやゴマ、落花生など含油量の多い植物から油脂を絞るための「圧搾機」も、紀元前から使われていたようです。これは円筒の容器に原料を入れ、らせんを回転させながら板に圧力を加えて果汁や油脂をしぼり出す仕組みでした。1430年代(40年代とも)、ドイツのグーテンベルク(1400年頃~1468年頃。ドイツの技術者。本名はヨハネス・ゲンスフライシュ)は、鋳造した金属活字を使った活字印刷機を発明。1450年頃、マインツで印刷所を開業します。印刷機はぶどうの圧搾機を用いたもので、グーテンベルクは印刷機にねじ締結も使用しています。これは金属加工におけるプレス技術の基礎になりました。ちなみに新聞が「The Press(ザ・プレス)」と呼ばれるのは、圧搾機の押す(press)が語源なのだそうです。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチが残したねじのスケッチ

金属製ボルト、ナット、小ねじ、木ねじといった、締結用ねじの使用が広まったのは、1500年前後だといわれています。馬車や荷車、鎧などの組み立てはもちろん、百年戦争後のフランスを統一し、絶対王権の基礎を固めたルイ11世(1423~83年。在位1461年~1483年)の木製ベッドには、金属製の木ねじが使われていたそうです。

イタリアの画家であり、彫刻、建築、音楽に優れたほか、科学者でもあった、天才レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)が残したノートには、幾何学的なねじの形状や「ねじ切り盤(手動のタップ(めねじを加工するための道具)やねじ切りダイス(めねじ形の工具)、旋盤などのような専門機械ほか、いろいろな切削工具でねじを削り出すこと)によるねじの加工原理が描かれています。さらに2本の親ねじ、スライトレストと換え歯車まで用意した、近代的な構造を有するねじ切り旋盤のスケッチも残されており、これらはねじを締結用として利用した最古の記録だそうです。

 

16世紀になると、ねじ作りが盛んになります。1568年(1569年とも)、フランスの数学者ジャック・ベンソン(1500~1569年)がネジ山を一本ずつ切削で加工する「ねじ切り旋盤」を開発。これは、ねじを製造する最初の機械だとされていますが、木製のため上手く作動しなかったのではないかと考えられています。また、同じ頃(16世紀)、イタリアの冶金技術者ビリングチオ(1480~1539年。錬金術を排し、1540年には採鉱・冶金の知識と技術をまとめた『火工術』10巻を著した)が、水車を動力源として、大砲の砲身の中ぐり加工を行いました。彼の技術によって、より命中率の高い大砲の製造が可能になったそうです。

 

その後、さらに強度を要求する部品が求められる中、旋盤の材料には金属類が用いられるようになるなど、工作機も進歩していきます。そのような状況を背景に、1770年(1775年とも)、イギリスの数学者、天文学者であるジェシー・ラムスデン(1735~1800年)がねじ切り旋盤を発明。1778年、ラムスデンの作ったねじは、1インチあたり125個(ピッチ0.2mm)のねじ山があったそうです。

 

初期の工作機器に改良を加え、画期的な旋盤を作ったのは、イギリスの技術者であり発明家のヘンリー・モーズレー(1771年~1831年)です。18世紀半ばの一般的な旋盤は足踏み動力で、職人が切削用のバイト(刃物)を持ち、削りたい部分に当てて削るという仕組み。しかし、これではあまり精密な作業はできず、特に鉄といった硬い金属の加工には問題がありました。これに対してモーズレーは、バイトを固定できる工具台を作り、それを旋盤本体に対して正確に平行移動できるようにしたのです。この工具送り台は「スライドレスト」といい、「スライドレスト付き旋盤」は、後の機械加工に革命をもたらします。さらに、1800年、モーズレーは、一定の速さでスライドレストを移動させ、円筒形の金属にねじ山を作ることのできる、産業用として実用的な最初の「ねじ切り旋盤」を発明。この旋盤により、大量生産には欠かせないボルトとナットの互換性を実現(これ以前、ボルトとナットは特定の一組でしか噛み合わせることができなかった)させ、イギリスの産業革命に拍車をかけたモーズレーは「工作機械の父」「旋盤の父」と称されています。

 

なお、モーズレーの工場は、1841年、標準ねじ(ねじの互換性の必要から案出した三角ねじ山形。ウイットねじ。ウイットウォースねじとも)の寸法を決めたイギリスの機械技術者ジョセフ・ホイットワース(1803年~1887年)、蒸気ハンマーの発明で知られる技術者ジェームス・ナスミス(1808年~1890年)など、優れた技術者を輩出しました。

 

日本人が初めて見たねじは「火縄銃」のもの

ねじ切り旋盤が出回る以前は、部品同士の締結や結合には金属製の釘、鋲が中心に使われていました。日本も同様で、釘は古墳時代から使われていたといい、日本最古の木造建築物である「法隆寺」の解体修理では、飛鳥時代のものと思われる和釘(断面が四角形の角釘)が大量に発見されています。

 

日本に初めてねじが持ち込まれたのは、1543年(天文12年)、漂流したポルトガル人から種子島に伝わった火縄銃の銃底をふさぐための「尾栓(銃器の尾部を閉鎖するための栓)」と、それをねじ込む銃底の「めねじ」だったといわれています。なお、最初に伝わった締結ねじは、1551年(天文20年)、フランシスコ・ザビエルが、周防の大内義隆に贈った機械時計のねじだそうです。

 

種子島では、藩主の種子島時堯が鉄砲二挺を二千両で購入。そのうちの一挺を刀鍛冶の名人、八坂金兵衛(1502年~1570年)に与え、その模造を命じました。金兵衛は、銃底を塞ぐための尾栓ねじのおねじ(ボルト)をなんとか完成させますが、おねじがねじ込まれる銃底のめねじに苦労したそうです。当時、工具といえば「やすり」や「たがね」くらいしかありません。それでも金兵衛は試行錯誤を重ね、1年の後、「火造り(熱間鍛造法:金属材料を真っ赤になるほど加熱し、柔らかい状態にした上で圧力をかけ、金型成形する金属加工法)」を用いて、めねじを製作したそうです。

 

なお、銃製造に悩んだ金兵衛が、自分の娘・若狭をポルトガル人に嫁がせてまで、ねじの作成法を習得したという話も伝わっています。真偽のほどはわかりませんが、当時、ねじ作りがどれほど貴重な技術であったかがうかがえます。

 

日本の近代化を後押しした小栗上野介

幕末の徳川幕府を支えた幕臣・小栗上野介忠順(1827~1868年)は、1860年、「日米修好通商条約」批准の使節として渡米した際、ワシントンの造船所など、アメリカの技術力や西洋文化を目の当たりにして、カルチャーショックを受けます。小栗は「国力を高めなければ、欧米には到底及ばない」と悟り、1本のねじを持ち帰ったそうです。帰国後、小栗は紙幣発行をはじめ、洋式軍隊の編制訓練、製鉄所・造船所建設などの施策を遂行します。しかし、時代は討幕に傾いていき、戊辰戦争では将軍・徳川慶喜に徹底抗戦をすすめたこともあり、1868年(慶応4年)、小栗は新政府軍に捕らえられ処刑されてしまうのです。

 

とはいえ、維新後、明治政府の政策を見る限り、小栗の事績は日本の近代化、工業化の礎になったといえるでしょう。

 

大切な部品でありながら、普段は目立たない、縁の下の力持ちであるねじは「産業の塩」と呼ばれています。数多くの技術者の努力と工夫によって生まれ、進化してきたねじは、これからも、科学を発展させ、人々の生活を支えていくことでしょう。

 

参考文献

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