日軽金のアルミニウム押出材も活躍 輸送のイノベーション、新幹線の発明の歴史

2020/02/17

カテゴリー
しさく解体新書
キーワード

新幹線とアルミニウム

全国の主要都市を結ぶ「新幹線」は、「その主たる区間を列車が時速 200km以上の高速で走行できる幹線鉄道(全国新幹線鉄道整備法)」と定義されている、JRグループの高速幹線鉄道です。1964年(昭和39年)開業の「東海道新幹線(東京〜新大阪)」を皮切りに、現在、「山陽新幹線(新大阪~博多)」「東北新幹線(東京~新青森)」「上越新幹線(東京~新潟」「山形新幹線(福島~新庄)」「秋田新幹線(盛岡~秋田)」「北陸新幹線(高崎~金沢)」「九州新幹線(博多~鹿児島中央)」「北海道新幹線(新青森~新函館北斗)」の路線が運行しています(山形新幹線と秋田新幹線は、在来線を利用したミニ新幹線)。

 

さらにJR東海では、リニアモーター(通常の電動機とは異なり、回転運動を行わず、直線的な方向に力を発生するモーター)を車両の駆動・制動に利用し、時速500km(新幹線の約2倍)の速さで、東京と大阪を最短67分で結ぶ、世界最速の「リニア中央新幹線」を建設中。2027年には、東京都~名古屋市間で営業運転を開始する予定です。この新幹線は、超電導電磁石を用いた磁気浮上(マグレブ)式(磁力の反発力を利用して物体を浮上させる方法)を採用。そのため、摩擦が小さく、高速走行が可能になっています。

 

ペリー提督の蒸気機関車に乗った日本人

開業から半世紀以上。今やビジネスや旅行など、陸上移動に欠かせない新幹線~鉄道の本格的な歴史は幕末~明治時代に始まります。

18世紀半ばから19世紀初頭、「産業革命(イギリスに始まる、機械制工場と蒸気力を利用した技術革新)」に伴い、物資の大量輸送が必要不可欠になったことから、イギリスでは交通機関が大いに発達します。1825年、イギリスのストックトン~ダーリントン間で、蒸気機関車を用いて石炭を運ぶ貨物鉄道「ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道」が運行を開始。1830年には、客を乗せた世界最初の鉄道営業「マンチェスター・リヴァプール鉄道」がスタートします。これらの成功が呼び水になり、欧米での鉄道敷設は急速に延び、アメリカ(1827年)、ドイツ(1835年)、ベルギー(1835年)、フランス(1840年)、ロシア(1837年)において次々と建設が始まりました。

 

幕末の日本でも、すでに鉄道の存在が知られていたようです。1853年(嘉永6年)、日露和親条約の締結使節として、長崎に来航したエフィム・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(ロシア帝国の海軍将官。1803~1883年)が、船上で蒸気機関車の鉄道模型を佐賀藩の藩士に見せ、詳しい解説をおこなっています。また、1854年(嘉永7年)、日米和親条約の回答を求め、再来航したマシュー・カルブレイス・ペリー提督(アメリカ海軍軍人。1794~1858年)は、徳川幕府に蒸気機関車の模型を贈呈。ただ、模型といっても実物の約1/4のスケールで、機関車の長さ1.8mという大きなもの。幕府の横浜応接所裏の麦畑に1周約110mの円状軌道が敷設され、石炭を焚いて時速32kmで実際に走ったそうです。なお、この時、幕府儒官であった林家の塾頭・河田八之助(儒学者。河田迪斎とも。1806~1859年)という、林大学頭(だいがくのかみ)が、客車の屋根に乗ったという話が残っています。ちなみに日本人で初めて「鉄道」に乗った人物は、アメリカに漂流したジョン万次郎(中浜万次郎。江戸時代末期の幕臣。1827年(文政10年)~1898年(明治31年))で、1845年(弘化2年)のことだったそうです。

 

鉄道は近代国家を目指す明治政府の主要事業

産業革命がもたらした経済力と軍事力によって、欧米では海外進出、植民地化がさかんになります。そのため、開国を前後して、大名の中には、海外の列強国と肩を並べていくためには、西洋の文化や技術を取り入れることが必要だと感じる者も少なくありませんでした。プチャーチンの蒸気機関車に興味を持った佐賀藩では、「精煉方(佐賀藩が嘉永5年(1852年)に設けた理化学研究所)」の田中久重(儀右衛門。1799年(寛政11年)~1881年(明治14年))らに命じ、1855年(安政2年)に蒸気機関車模型の制作に着手。アルコール燃料で動く、全長約27cmの模型機関車を完成させました。これは国産初の蒸気機関車で、佐賀藩では蒸気船の模型を製造しています。ちなみに、田中久重は江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ、芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者としても知られています。

なお、同時期に福岡藩でも蒸気機関車の模型を製造。加賀藩や長州藩が外国の蒸気機関車の模型を購入した記録も残っているそうです。

 

こうした背景も手伝って、維新後の明治政府は、殖産興業政策により日本の近代化を進めていきます。そのひとつが鉄道敷設です。明治2年(1969年)、政府は官営による東京~京都(中山道経由)、東京~横浜、京都~神戸、琵琶湖~敦賀の4路線の建設を決定。大隈重信(明治の政治家、教育者。1838年(天保9年)~1922年(大正11年))と伊藤博文(明治の政治家。1841年(天保12年)~1909年(明治42年))、伊藤らとイギリスに留学し、鉱山学や鉄道を学んだ井上勝(明治の技術者・鉄道庁長官。1843年(天保14年)~1910年(明治43年))らを中心に計画は進められ、イギリス公使ハリー・スミス・パークス(英国外交官。1828年~1885年)に鉄道建設技術者の派遣を要請。明治3年(1870年)、建築技師長のエドモンド・モレル(技術者。明治のお雇い外国人。1840~1871年)をはじめ、副技師長のジョン・ダイアック(1828年~1900年)はイギリスほか、多くの技術者や工事担当者が来日し、鉄道工事がスタートします。

 

イギリスから資本と技術の援助を受け、明治5年(1872年)、日本初の鉄道が、新橋駅~横浜駅間(約29km)に正式開業しました。徒歩で6時間かかった道のりを53分で走り抜ける「陸蒸気」に乗った人たちは、その速さと乗り心地の良さに驚いたといいます。敷設にあたり、モレルは「鉄道後発国の新規事業は、政府主導で推進する」「森林資源の豊富な日本では、(当初利用する予定だった)英国製枕木でなく自国の木材を使用したほう良い」「国内での技術者(人材)育成」などを伊藤らに提案。日本の鉄道の礎を築き、「日本の鉄道の恩人」と賛えられています。しかし、モレルは鉄道の完成を見ることなく、1871年(明治4年)、持病の結核が悪化し、30歳の若さでこの世を去りました。

 

鉄道の広がりと私鉄の登場

新橋~横浜間の鉄道開業を皮切りに、1874(明治7年)に大阪・神戸間が開業(1887年(明治10年)に全通)、1889年(明治22年)には「東海道線」(新橋~神戸間)が全通するなど、鉄道網は広がっていきます。敷設の陣頭指揮を執ったのは、鉄道開業に尽力した井上勝です。井上は、1880年(明治13年)、日本人技術者だけで逢坂山トンネルを完成させるという快挙を成し遂げるなど、その後も日本の鉄道の発展に寄与しました。

 

一方、1881年(明治14年)には、上野・青森間の鉄道敷設を目指し、日本初の私鉄鉄道「日本鉄道会社(1891年(明治24年)には東北線全通)」が設立。各地で私鉄の敷設・開業が盛んになり、1892年(明治25年)には全国に50社近い私設鉄道が発足したそうです。ちなみに1890年(明治23年)の官設鉄道の延長キロは886km、私設鉄道の延長キロは1366kmで、官設鉄道の延長キロを超えていました。

 

鉄道の電化も始まり、1895年(明治28年)に路面電車の「京都電気鉄道」が開業。一般鉄道では、1904年(明治37年)、「甲武鉄道(現在のJR中央本線)」が飯田町~中野間を電化したのが始まりです。

 

時速200kmで東海道を走る「弾丸列車」

明治2年に始まった鉄道は、乗客や物資の輸送になくてはならない輸送手段となっていきます。加えて、鉄道利用の拡大に拍車をかけたのは戦争でした。1878年(明治11年)の西南戦争をはじめ、日清戦争(1894年~1895年(明治27~28年))、日露戦争(1904年~1905年(明治37~38年))では、各地の部隊や軍事物資を港へ輸送するなど、大きな役割を果たしています。

 

1937年(昭和12年)、盧溝橋事件(中国北京郊外の盧溝橋付近で、日本と中国の軍隊が衝突した事件)をきっかけに、満州国(1932年~1945年まで存在した国家)を巡って日本と中国は戦争(日中戦争)へと突入。大陸への進軍に伴い、国内では軍需輸送が増加していきますが、その大動脈である東海道本線・山陽本線の輸送力では不足が生じるようになったのです。

 

そこで、輸送力の強化を図るために計画されたのが「弾丸列車」でした。これは在来線とは別に、標準軌の複線を東京~下関間に増設するもので、1939年(昭和13年)から調査が始まり、1941年(昭和15年)から工事が始まります。弾丸列車の概要は、「東京~静岡間は電化し、その区間の最高速度は時速200km」「静岡より西は大型の蒸気機関車で牽引。最高速度は時速150km」「東京~大阪は4時間、東京~下関を9時間で結ぶ」とあり、すでに高速鉄道が時速200kmを想定していたことには驚かされます。また、本計画には、下関~釜山を海底トンネルで繋ぎ、東京から北京まで直通運転を行うという目的も含まれていたそうです。

 

工事に着手はしたものの、次第に太平洋戦争の戦況が悪化。1943年(昭和18年)度をもって、弾丸列車計画は中断されてしまいました。

 

弾丸列車から新幹線へ

終戦後の日本は復旧に追われ、国鉄でも荒廃した施設や車両の応急修理を余儀なくされていました。しかし、国力の回復は目覚ましく、朝鮮動乱を契機として、景気も上昇していきます。これに比例し、鉄道を利用する乗客の数や貨物の量は増加。これに対して、様々な応急対策が立てられますが、輸送力不足は深刻なものになっていきました。

 

終戦後の日本は復旧に追われ、国鉄でも荒廃した施設や車両の応急修理を余儀なくされていました。しかし、国力の回復は目覚ましく、朝鮮動乱を契機として、景気も上昇していきます。これに比例し、鉄道を利用する乗客の数や貨物の量は増加。これに対して、様々な応急対策が立てられますが、輸送力不足は深刻なものになっていきました。

 

そのような中、国鉄は東海道本線増強の研究を開始。 1956 年(昭和 31 年)には、調査会が作られ、広軌(鉄道線路の軌間が標準軌間の 1435mm より広い)による「新幹線」計画が具体化されます。新幹線開通を推進した中心人物が、満鉄(満州鉄道)理事を務めた元国鉄マン、後に「新幹線の父」と呼ばれる十河信二(1884 年(明治 17 年)~ 1981 年(昭和 56 年))です。十河はすでに 71 歳でしたが、続発する鉄道事故や労組問題で疲弊した国鉄に力を与えたいと、第4代国鉄総裁に就任。かつて弾丸列車計画にかかわった大石重成(国鉄常務理事・新幹線総局初代局長。 1906 年(明治39年)~ 1984 年(昭和59 年)、島秀雄(国鉄技師長。 1901 年(明治 34 年)~ 1998 年(平成 10 年)。「デコイチ(またはデゴイチ)」ことD51ほか、多くの蒸気機関車の設計を手掛ける)らと共に超高速列車計画を進めていきます。

 

しかし、当時の欧米では、将来の大量輸送手段として航空機と高速道路網による自動車での輸送に注目が集まり、「これからはクルマや飛行機の時代」「鉄道は時代遅れのものだ」という見解が広まっていました。鉄道の世界的な斜陽産業化が進む中、世間やマスコミは「世界三大馬鹿(巨大なだけで何の役にも立たないもののたとえ)」になぞらえて「ピラミッド、万里の長城、新幹線(オリジナルは戦艦大和)」と揶揄。また、莫大な工費が必要なことも、新幹線敷設反対に拍車をかけました。

 

そのような中、鉄道技術研究所(現:鉄道総合技術研究所)の篠原武司所長(1906 年(明治 39 年)~ 2001 年(平成 13 年))らが、1958年(昭和 32 年)、鉄道技術研究所創立 50 周年記念講演を行います。そこで篠原所長は、「広軌(世界の標準である鉄道線路のレール間隔。幅1435mm。それまでは狭軌(幅1067mmを採用))で新路線を作れば「東京~大阪間 3 時間」も楽に到達可能。それを作るかどうかは国民の皆さん次第である」と投げかけ、技術的な裏付けを語りました。この講演は大きな反響を呼び、一般の関心も一気に高まり、1958 年(昭和 33 年)、5 か年で工期を完了することを目標に新幹線建設計画が承認されます。

 

こうして第一歩を踏み出した新幹線ですが、間もなく工費不足に直面します。経済成長に伴って、物価や人件費が上昇し、東京オリンピック工事で用地代や資材費が高騰。当初予定されていた1948億円の工費では、まかないきれなくなったのです。資金不足は国会でも問題となり、新幹線の建設中止すら囁かれる深刻な状況の中、奔走する十河総裁を救ったのは、時の大蔵大臣・佐藤栄作(1901年(明治34年)~1975年(昭和50年)。後の内閣総理大臣。1974年にノーベル平和賞を受賞)でした。佐藤大臣は十河総裁に、世界銀行からの鉄道借款を助言。その後、十河総裁や島技師長らの尽力により、2年後に 8 千万ドル(約288億円。1ドル=360円)の借款を受けることに成功するのです。

                                                    

平和への願いが込められた新幹線の先頭デザイン

新幹線は、時速 200 kmという高速運転を実現するために、まず事故を防ぐことを考えて、「自動車との衝突事故を防ぐため、踏切を一切設けない」「線路内に人が立ち入れないようにする」「路線は、在来線と別ルートで新規に建設した線路設備を用いる」「全線立体交差とする」「カーブにおける曲率半径を大きくして、できる限り直線を確保する」といった設計計画を立てます。

 

また、人や物の高速大量輸送を可能にするため、軌間は「標準軌 (1,435 mm) 」を採用。地盤が弱く、起伏の多い日本で列車を高速運転できるよう、急カーブや上り勾配の多い条件でも加減速能力に優れ、線路への負担が少ない「動力分散方式(列車の車両のうち、多数の車両が動力を持つ方式のこと)」を取り入れます。さらに「蛇行動(列車が高速走行中、車輪がレールの上で揺れること。これが列車の本体に伝わると、車体が分解してしまう可能性がある)」を防ぐために、ダイアフラム型空気ばね(空気ばね:気体(空気)の圧縮性や流動抵抗を応用した柔らかく、減衰性能を有するサスペンション)を用いたダイレクトマウント方式の車体支持機構の採用を決めるなど、工夫を重ねていきました。

 

そして、初期新幹線のイメージを確立し、2008年の引退まで長く親しまれた「流線形のボディ」。高速走行を踏まえ、空気の抵抗をできるだけ抑えた先頭部のデザインは飛行機を思わせ、「まるで地面を走る航空機」にも例えられました。設計を手掛けたのは、小田急電鉄ロマンスカー3000形、懸垂型モノレールなどの設計にも携わった三木忠直(1909年(明治42年)~2005年(平成17年))です。三木は戦時中、日本帝国海軍技術少佐を務め、「陸上爆撃機銀河」「ロケット特攻機桜花」などの機体設計を担当していました。桜花というのは、終戦間際の1945年、陸上攻撃機の胴体に付けて戦地へ運ばれ、爆薬とともに敵艦に体当たりする戦闘機です。三木は「パイロットが必ず死ぬ飛行機」を作ることに対して強く反対したそうですが、上官の命令を拒否することはできませんでした。

 

戦後、国鉄は、陸海軍に在籍した有能な技術者たちを、すすんで鉄道技術研究所に受け入れます。三木も国鉄鉄道車両技術者に転身。桜花の攻撃で多数の戦死者がでたことに責任を感じていた三木は、「自動車関は戦車に、船舶関係は軍艦になる。軍事産業への技術転用の可能性が一番低いのは鉄道」と考え、鉄道を選んだのだそうです。

 

様々な人の努力と熱意が実り、1964 年(昭和 39 年)、東京駅において新東海道新幹線の出発式が執り行われます。しかし、そこには「新幹線三羽烏」の異名をとった、十河総裁、島技師長、大石重成新幹線総局初代局長の姿はありませんでした。十河は大幅な工費超過などに対しての責任を取る形で、開業前年である 1963 (昭和 38 年 )に国鉄総裁を辞任。「十河総裁を助けるために国鉄に戻った。十河さんが辞めるなら」と、島、大石も国鉄を去っていたからです。

 

なお、 5 年という短期間で開業できたのは、「弾丸列車計画」の際に開削されたトンネル、買収された用地の多くを活用することができたからだともいわれています。新幹線は、戦前戦後を通じ、十河総裁、島技師長、大石重成新幹線総局長をはじめ、多くの鉄道マンが心血を注いだ発明だといえるでしょう。

 

進化する新幹線。より速く安全に、環境保護に即した形へ

東海道新幹線開通によって、在来線特急で約6時間30分かかった東京~大阪間は、約4時間(東京~新大阪間)に短縮されます。最高速度は、当時の世界最高速である時速210km。その後は年々、スピードアップを図るための研究が重ねられ、1992年(平成4年)には最高速度時速270kmの営業運転が始まり、東京~新大阪間が2時間30分と大幅に短縮されました。1999年(平成11年)から700系の車両が運行を開始。山陽新幹線内では最高時速285kmを実現しています。2007年(平成19年)には、700系を改良したN700系が東京~新大阪間の最短所要時間を5分短縮。さらに2013年(平成25年)、N700系を改良したN700Aが登場し、東京駅~新大阪駅間の所要時間は最速2時間22分(最高時速285km。2018年(平成30年))で運行されています。

 

2019年、新幹線はさらなる進化を目指し、JR東日本が次世代新幹線の試験車両「ALFA-X(アルファエックス)」を公開、JR東海は新型のN700Sの速度向上試験を行い、最高時速362kmを計測しました。このようなスピードアップに加え、新幹線が安心・安全に営業を続けられる背景には、研究による技術力の向上があるといえます。そのひとつが車両の軽量化です。

 

主な方法としては、「システム変更・集約化」「構造の変更・小型化・薄肉化」「材料・構体の変更」いった部分での改良が考えられます。特に材料・構体においては、従来の耐候性鋼に替わり、200系新幹線からアルミニウム合金が使われています。ちなみにN700A重量は、0系の約7割です。

 

アルミニウムは「軽くて強い」「耐久性に優れる」「リサイクル性に優れる」などの特長を持っています。鉄道車両にアルミニウムを使用することで軽量化を含め、次のようなメリットが期待できます。

 

○軽量化によるメリット

・アルミニウムは、「比強度(同一質量で耐え得る強度)」が普通鋼の約1.5倍。そのため車両の軽量化が図れる

・加・減速度や最高速度などの車両性能が向上。目的地までの時間短縮、車両の運行効率が上がる

・走行エネルギーの低減により、動力費を節減

・軌道、橋梁への負荷が低減し、軌道保守費の増大を抑制。摩耗部品の寿命が長くなり、メンテナンスの低減が可能に。

・騒音、地盤振動が低減。周囲の環境を保全。環境負荷(CO2)の低減も期待できる

 

〇耐食性によるメリット

・無塗装でも腐食の心配がなく、車両保守費の節減が可能

・構体の長寿命化で、車両のリニューアル、リユースが可能に

 

〇リサイクル性によるメリット

・引退後のアルミ車両は、自動車部品などのアルミニウム製品へリサイクルされるため、省資源、省エネルギー効果が得られる。また新地金をつくる場合と比較して、アルミスクラップを再生地金にするには、3%のエネルギー消費量のみ。

 

このようなメリットを有するアルミニウムは、今や新幹線に欠かせない材料といえるでしょう。

 

次世代の新幹線開発を担うアルミニウム車両

新幹線の車両に、アルミニウム合金を用いて施されているのが「ダブルスキン構造」です。アルミ素材を用いる車体構造には主に「シングルスキン構造」と「ダブルスキン(中空押出形材)構造」のふたつのタイプがあります。シングルスキンとは中空部のない形状の形材で車体の外皮を構成し、同じく垂木や窓柱に骨材を配して構成する方法。それに対してダブルスキンは、押出材自体に2枚の板、その間に斜めのリブ(補強部材)が入った構造になっています。骨材がほとんど必要ないので、客室内にゆとりと開放感を与え、シングルスキンに比較して、骨組み不要で車体を組み立てることができます。ほか、ダブルスキン構造の主なメリットには、次のようなものがあります。

 

・遮音特性に優れている

・制振材を一体化することにより、客室騒音を極めて低く抑えることが可能

・剛性が強いので、車体のたわみが少ない

・柱が不要となるため、広い客室を実現

・組立工数が少なく、製造コストの削減効果が期待できる

 

現在製造されているアルミ製の新幹線車両や特急型車両の多くは、このダブルスキン構造が主流になっています。

 

また、1991年、イギリスのケンブリッジに本部を置く溶接研究機関である「TWI(接合・溶接研究所)」が、アルミニウム合金に適した接合技術「摩擦撹拌接合(FSW:Friction Stir Welding)」を開発。これは2つのアルミニウム合金材の突合わせ面に、回転工具を回転させて挿入し、素材を撹拌して接合する技術で、従来の溶接方法に比べて熱影響が少ないため、高品質で高強度が保たれ、歪みの少ない良好な外観が得られます。対象素材はアルミニウムのほか、摩擦熱による材料の軟化と塑性流動が接合の基本条件なので、マグネシウム、銅といった、比較的低い温度で軟化する金属、その合金となっています。

 

○摩擦撹拌接合の主な特長

・接合時の溶融部がなく、熱処理合金でも高い継手強度が得られる

・溶接後の変形(歪みや曲がり)や欠陥が少ない

・溶接割れを起こしやすい材質、鋳物、複合材料、異種材質の接合が可能

・溶融溶接によるヒューム(粉塵やガス)、スパッタ(飛散金属)、スマット(黒いスス)の発生がなく、作業環境が清潔に保てる

・作業者の熟練度、技量に関係なく接合でき、接合部の品質が安定する

 

新幹線開発は、アルミニウム合金とダブルスキン構造、これらに適した接合技術によって、日々進化を続けています。

日軽金のアルミニウム押出材は、東海道・山陽新幹線をはじめ、東北新幹線、北陸新幹線において、N700系をはじめとする強くて軽い車両を実現。より速く、快適な乗り心地を提供しています。

キーワード

ページトップに戻る