「ポンプ」「スプリンクラー」の歴史と、消火用スプリンクラー設計者の想い - 後編 -

2020/03/18

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しさく解体新書
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農業以外の用途で使われる主なスプリンクラーには、下記のようなものがあります。

 

  • 緑化用スプリンクラー:緑化公共事業などにおいて、草花や木・芝生などに水を与える。
  • 産業用スプリンクラー:製鉄所・セメント会社などで利用。風による影響を最小限に抑制、粉塵防止効果・耐久性の高いタイプなどがある。

 

他には、グラウンド(校庭用)スプリンクラー、サッカー場・ラグビー場向けなど、散水地の状況や条件に応じたスプリンクラーが用いられています。

 

スプリンクラーの黎明期は1800年代

スプリンクラーの歴史は、1723年、イギリスで製造業者・薬剤師をしていたアンブローズ・ゴッドフリー(ドイツ出身。1660~1741年)が、公式に自動消火装置の特許を取得したという記録まで遡ります。1806年(1807年とも)、イギリス人のジョン・キャリーという人物が、穴の開いたパイプのシステムを通して水を分配して消火する、熱作動装置を開発。これは、火の熱がコードを介して燃えると、自動的に作動する穴あきスプリンクラーでした。

 

このシステムを改良し、1809年に特許を取得したのはウィリアム・コングリーブです。1812年、コングリーブは、「シアター・ロイヤル・ドルリー・レーン(ロンドンのコヴェント・ガーデン地区にある、17世紀創立とされる英国最古の王立劇場)」に世界初といわれるスプリンクラーシステムを設置。建物の周りにパイプシステム、穴あきパイプを張り巡らせ、火災が発生すると、水が火災に注がれるという仕組みでした。

 

その後もスプリンクラーの開発は行われ、1864年、イギリスのA.スチュワート・ハリソンが最初の閉鎖式スプリンクラーヘッドを使用した自動散水栓を開発したといわれています。数年後、「マキシム銃(世界初の全自動式機関銃)」の発明で知られる英国の発明家ハイラム・ティーブンス・マキシム(アメリカ出身。1840年~1916年)が、家具工場から火災の再発防止策の相談を受けます。その工場は何度も火事に遭っており、それを解消するため、マキシムは自動火災スプリンクラーを発明したそうです。

 

マキシムのアイディアを取り入れ、スプリンクラーシステムを開発したのは、フェアヘーブン&ウェストビルストリート鉄道会社の社長で、ピアノメーカーだったヘンリー・S・パーメリー(1846年~1902年)。彼はフレデリック・マトシェクマトシェク会社の製品を製造していましたが、1874年、火災保険会社の認める、最初の実用的な自動火災スプリンクラーシステムを発明して特許を取得。ピアノ工場の防災設備としました。この工場は、アメリカで最初に消火システムを備えた建物としても知られています。なお、パーメリーは1874年から1882年にかけて、スプリンクラーの7つの改良点で特許を取得したそうです。

 

スプリンクラー装置を世界に広めたのは、アメリカのエンジニアであるフレデリック・グリンネル(1836年~1905年)です。1855年、レンセラー工科大学を卒業したグリンネルは、製図工、建設エンジニア、鉄道メーカーのマネージャーとして働き、100を超える機関車の設計を監督しています。グリンネルは、パーマリーのライセンスを取得後、スプリンクラーの改善に取り組みます。その結果、1881年、彼の名前を冠した自動スプリンクラーの特許を取得。1890年には、ガラスディスクスプリンクラーを発明しました。世界初の実用的な自動火災スプリンクラーの先駆けとなったグリンネルは、スプリンクラーの改良に関して約40の異なる特許を取り、ドライパイプバルブと自動火災警報システムも発明・開発しました。パーメリーとグリンネルの発明がきっかけとなり、1878年から1882年の間、アメリカには200,000台を超えるスプリンクラーが設置されたそうです。

 

19世紀の最先端技術が採用された「横浜赤レンガ倉庫」

日本に初めてスプリンクラーが輸入されたのは、明治20年(1887年)のことです。紡績機械の輸入と同時にイギリスから持ち込まれたといわれています。その約20年後、明治41年(1908年)には、スプリンクラー設置施設に対する火災保険料割引が制度化されていることから、日本でもスプリンクラーは確実に広まっていったと考えられます。

 

その数年後、明治44年(1911年)に2号館、続く大正2年(1913年)には1号館が完成した「横浜赤レンガ倉庫(神奈川県横浜市)」において、荷物用のエレベーターをはじめ、スプリンクラーや防火扉など、当時の最新技術を導入。四半世紀前まで、火事といえば、現場周辺の建物や構造物を破壊して延焼を防ぐ「破壊消火(破壊消防とも)」が当たり前。水を使うといっても「竜吐水(放水ポンプ。龍が水を吐く姿に似ていることから命名)」や「箱型水鉄砲(竜吐水の補助として使用したポンプ)」くらいしなかった状況が明治末まで続いた日本おいて、横浜赤レンガ倉庫のスプリンクラーは画期的な防災装置だったことでしょう。

 

大きな火災を教訓に変わる消防法

スプリンクラーが一般的に出回るようになるのは、第二次世界戦後のことで、昭和36年(1961年)には、消防法により、病院や地下街、飲食店、百貨店、旅館 、劇場といった「特定防火対象物」11階以上の建物にスプリンクラーを設置が義務付けられました。

 

しかし、建物の高層化が進んだ1960年半ばから1970年代前半にかけて、水上温泉菊富士ホテル火災(昭和41年(1966年))、有馬温泉池坊満月城火災(昭和43年(1968年))、磐梯熱海温泉磐光ホテル火災(昭和44年(1969年))など、多数の死者を伴ったビルやホテルの火災が多発します。追い討ちをかけるように、昭和47年(1972年)には、死者118人にのぼった「大阪市千日デパートビル火災」が発生。事態を重く見た政府は、この年の12月、「防火管理者制度の拡充」「スプリンクラー設備の設置対象拡大」「複合用途防火対象物への規制強化」他の項目を盛り込み、消防法施行令を改正します。それも束の間、昭和48年(1973年)に、熊本市大洋デパート火災が起こります。

原因は不明ですが、消火器や屋内消火栓設備はあったものの、適切に維持管理されておらず、正常に稼働する状態ではなかったためだといわれています。

 

これらの対策として、昭和49年(1974年)にも消防法が改正されるという措置がとられます。最近の例だと、平成24年(2012年)、広島県福山市でのホテル火災、平成25年(2013年)、長崎県長崎市の認知症高齢者グループホームにおいて発生した火災を踏まえ、平成27年(2015年)にスプリンクラー設備、自動火災報知設備及び消防機関へ通報する火災報知設備(火災通報装置)の設置基準など、消防法令が一部改正されています。

火災が起き、死傷者が出てから法改正が行われるというのは、本当にいたたまれないことです。記憶に新しいところでは、令和元年(2019年)11月、沖縄県の首里城が火災で甚大な被害を被りました。幸い負傷者はいなかったものの、建物と共に貴重な歴史資料が消失。後の検証によると、首里城には消火器や屋内消火栓、屋内消火栓ポンプユニット、放水銃、ドレンチャー設備などは設けられていましたが、スプリンクラーなどの消火設備は設置されていなかったそうです。なお、火災当日、ドレンチャー設備が稼働したかどうかは不明。放水銃は初動対応では使用されなかったとのことです。

 

首里城火災をさかのぼること約7ヶ月。パリのノートルダム大聖堂も大きな火災に見舞われました。その際、文化庁が国内の重要文化財の建物(世界遺産や国宝含む4649棟)を対象に調査を行なったところ、屋内に消火設備を設置しているのは全体の16.8%。スプリンクラーを設置しているのは、66の建物だけだったそうです。

 

首里城には、消防法によるスプリンクラーの設置義務はありませんでした。スプリンクラーが誤動作すると、屋内の文化財が水浸しになってしまうことは確かに考えられます。しかし、灰塵に帰したものは二度と戻ってきません。首里城の再建において、文化財をしっかり守れるような防火設備が開発され、設けられるよう願うばかりです。

 

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