世界に誇る日本独自の工芸品「刀剣」(日本刀ほか)の歴史

2020/04/13

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歴史小説、剣劇小説などに登場することも少なくないため、歴史愛好家には価値や来歴が認識されていた「刀剣(主に日本刀)」ですが、近年は刀剣をモチーフにしたゲームの影響も手伝って、若い世代、女性の間で人気が高まっています。関連書籍を購読し、刀剣を収蔵する神社仏閣や博物館、美術館などに足を運ぶ熱心な女性ファンは「刀剣女子」とも呼ばれ、その人気はいまだに衰えていないようです。

 

漆塗りや金細工、浮世絵をはじめ、日本には、世界から注目されている数多くの美術品・工芸品がありますが、刀剣~日本刀もそのひとつとだといえます。その魅力は「精巧な造り」「刃紋(焼き入れの過程でできる刃の文)の美しさ」「刀匠それぞれの個性」といった外見的なものから、「武士の魂を感じる」「好きな武将の愛刀だから」といった理由まで、鑑賞者によって実に様々。ただ、いずれにしても、日本刀だけが持つ独特な雰囲気が、多くの人を惹きつけて離さないのだといえるでしょう。

 

日本刀の歴史と分類

ひとことで日本刀といっても、時代や形状、刀匠(生産地)、利用目的などにより、様々な種類に分類されます。その基本といえるのは時代区分で、「上古刀」「古刀」「新刀(前期・後期)」「新々刀」「現代刀」に分けることができます。

 

「上古刀」とは、平安時代(中期)以前に作られた刀を指します。日本に大陸から刀剣が伝えられたのは紀元前のことで、当時のものは青銅製の直刀でした。刀自体もとても重く、「斬る」というより、「叩く」という形で敵と戦ったようです。古墳時代になると鉄製の刀剣が作られるようになりますが、「平造(ひらづくり。刀身の両面が平らなもの)」「切刃造(きりはづくり。鎬(しのぎ。刃と峰(刀の背)との間に刀身を貫いて走る稜線)と峰との間が広く、刃方の肉の勾配が急なもの)」と呼ばれる、鍛えも刃文も素朴な直刀でした。また、古墳時代後期には、金や銀で柄に装飾を施した刀剣も出現。実用の武器というより装飾品としての面も見られ、権力者や豪族の富の象徴にもなっていました。また武運長久を願って神社などに奉納、献上されることも多かったようです。ちなみに刀剣は、代々皇室が受け継いできた「三種の神器(八咫鏡・天叢雲剣(別名:草薙剣)・八尺瓊勾玉)」のひとつでもあります。

 

平安中期以降~安土桃山時代(文禄)に製作された刀剣は「古刀」に分類されます。平安時代後期になると、日本刀の特徴である「反り」のある「湾刀」、「鎬造り(しのぎづくり。峰と刃の間にある稜線=鎬が、峰側に寄ったもの)が現れました。武士が権力を握る鎌倉時代になると、武器としての刀剣の制作技術は飛躍的に発展します。当時の刀剣の特徴としては、「腰反り(刀身の中心よりも手元に近いところに反りの中心がある)」という、大きく反り返った形状が知られています。時代が下がるにつれて反りは浅くなり、「笠木反り(刀身の中心に反りがあり、鳥居の笠木のように見える形状。京反り・鳥居反とも)」という、集団戦にも対応する形状に変化していきます。

 

室町年間(1336年~1573年)、南北朝の動乱期になると、刀剣の需要も増えていきます。さらに「応仁の乱(応仁元年(1467年)~文明9年(1478年))」をきっかけに、国内は群雄割拠の戦国時代に突入。戦国大名らの要求を満たすために「数打物(直刃を焼いてある、粗製乱造された刀。束刀とも)」も出まわります。ただ、注文によって鍛えることもあり、これらは「注文打」と呼ばれました。「備前」と「美濃」が二大生産地で、この時代に活躍した刀匠は後世に名を残しています。

 

なお、室町前期は2尺4~5寸(約72cm~75cm)あった刃長(刀の長さ)が、機動性を求められた戦国時代には2尺1寸(約63cm)と短くなっています。なお、明治以降、日本刀研究のため、著名な刀工を輩出した地域であり、その特徴や作風を分類した「五箇伝(五ヵ伝、五ヶ伝とも)」に含まれる「山城伝(京都府)」「大和伝(奈良県)」「相州伝(神奈川県)」「備前伝(岡山県)」「美濃伝(岐阜県)」という流派が誕生したのも古刀の時代です。

 

日本刀の形状は、慶長年間(1596年~1614年)を境として大きく変化。そのため、刀剣史上、慶長以降の刀剣は「新刀」として分類されています。安土・桃山時代になると、刀鍛冶は京や江戸、諸大名の城下町を中心として集まるようになりました。刃長も2尺4~5寸(約72cm~75cm)と長くなっています。

 

戦さのない時代となった江戸中期以降は、切っ先が小型化、反りの浅い刀が多く見受けられます。刃長は2尺3寸(約69cm)前後のものが多く、寛文・延宝年間(1661年~1681年)に集中していることから「寛文新刀」と呼ばれています。

 

貞享・元禄(1684年~1704年)になると、寛文新刀より、やや深い反りがあり、斬新かつ華麗な刀文を持つ日本刀も登場。刀剣生産は江戸・大坂・京都の三都をはじめ、全国各地で行われるようになります。これは文化・文政(1804年~1830年)以後、「新々刀」の時代まで続き、幕末になると豪壮な造りの「大鋒の刀剣」(身幅の広い形状)が多く見られます。長さは2尺5~6寸(約65~68cm)で反りが浅く、動乱の時代に対して実用性の高いものになっているといえます。

 

明治維新(1868年)後、明治9年(1876年)の廃刀令(大礼服着用者・軍人・警察官にのみ帯刀を認め、士族などの帯刀を禁止した法令)から現在までの刀剣を「現代刀」と呼んでいます。刀の需要が減ったことで、廃刀令後、刀鍛冶は職を失ってしまいました。

 

しかし、逆風が吹くなかでも、作刀活動を続けた月山貞一(天保7年(1836)~大正7年(1918年)、作刀の機会が激減したため、一時は農具や包丁の鍛造で口糊をしのぐなど苦境の時期を過ごした宮本包則(天保元年(1830年)~昭和元年(1926年))らが、明治39年(1906)年、帝室技芸員(帝室(皇室)による美術工芸作家の保護と制作の奨励を目的として設けられた顕彰制度)に任命され、鍛刀の技術は保護されることになったのです。

 

以後、明治・大正・昭和・平成、そして令和の時代まで、日本刀独自の鍛錬技法は受け継がれています。

 

「太刀」「打刀」「脇指」は、すべて「日本刀」?

歴史ファンにはお馴染みでしょうが、時代劇や時代小説には、たとえば「太刀」や「脇指」といった、いろいろな刀剣が登場します。そのため、「「日本刀」と「脇指」は別物?」と思う人がいるかもしれません。でも、これらはすべて「日本刀」であり、長い柄の付いた「薙刀」や「槍」も日本刀の一種だとみなされています。

 

主な日本刀には、次のような種類があります。

 

・直刀(ちょくとう)

古墳時代から奈良時代にかけて作られた刀剣で、反りがほとんどないか、またはわずかに内反りであるもの。平造りや切刃造になっている。古墳から発掘、正倉院御物などで見ることができる。

 

・太刀(たち)

「鎬造り」という「造り込み(日本刀の刀身の造形方法)」が施された、反りのある刀剣。平安時代後期(12世紀)頃から室町時代前期まで、腰に吊して用いた。騎馬戦が中心だったため、馬上で抜き易いように刃を下にしたとされる。刃長は2尺3寸~6寸(約70~80cm)。美術館・博物館においては、刃を下にして飾ってある。

 

・刀(かたな)・打ち刀(うちがたな)

室町時代中期(15世紀後半)から江戸時代末期(19世紀中頃)まで、太刀に代って主流となった刀剣。刃長は2尺(約60cm)以上だが、太刀よりはやや短いものが多い。太刀と異なり、刃を上にして帯刀するため、抜く動作と斬る動作が一連になるのが利点。これは戦闘が騎馬戦から歩兵戦に変わったためだといわれ、当初は足軽など、徒歩の兵が用いていたが、戦国時代になると、武将たちも平時の差し料として常用するようになった。美術館・博物館では、刃を上にして展示。

 

・脇指(わきざし)

刃長が1尺(約30cm)~2尺(約60cm)の刀剣で、脇差とも書き、脇刀(わきがたな)、腰刀(こしがたな)とも呼ばれている。室町時代末期以降、打刀が主流になると、同形式の短い拵を一組にして用いた。これが江戸時代に入ると「大小」となり、大が刀、小は脇指とされる。

 

・短刀(たんとう)

刃長が1尺(約30cm)以下の刀剣。大部分は平造りで、湾刀出現以前は「かたな」と呼ばれていた。

 

・剣(けん・つるぎ)

長さに関係無く両面に刃がついており、左右同形の刀剣をいう。

 

究極の工芸品を産み出す鍛造技術の歴史

しなやかかつ強靭、時に華麗で優美さも合わせ持つ日本刀は、歴史培われた刀工による巧みな鍛造技術により、産み出されているといっても過言ではありません。

 

「鍛造」とは、鉄(金属)を打ち(叩き)、形を整え強くすることです。そのルーツは古く、紀元前4000年頃の古代エジプトやメソポタミアで金や銀、銅を鍛造し、装飾品や武器、祭祀用具を製作したことが始まりだと考えられています。鉄が登場するのは紀元前約3000年前(諸説あり)だといわれ、当初は隕鉄(隕石として地球外から飛来したもの)が使われ、後に鉄鉱石を製錬するようになったようです。

 

鉄は鍬や鋤、斧といった農耕貝をはじめとする生活道具、武器などに用いられるようになります。日本においても、紀元前3世紀頃、鉄は青銅とほぼ同時期に伝来。ただ、当時の日本に製鉄技術はなく、鉄器は輸入していました。そのため、「弥生時代に製鉄はなかった」というのが定説のようです。ただ、「弥生時代中期以降、石器が急速に姿を消し、鉄器が全国に普及している」「弥生時代後期の「小丸遺跡(広島県三原市)」が製鉄遺跡ではないかと考えられている」「弥生時代には、既にガラス製作技術があった」ことなどから、今後は製鉄の歴史が修正されるかもしれません。なお、遺跡の発掘調査などから、現状においては、5世紀には製鉄が始まっていたと考えられています。

 

中世以前の鉄器は、主に浸炭鍛造(表面から炭素を染入らせる)で、鋼(はがね)と錬鉄(じがね)の区分けがなかったそうです。そのため、鉄を打ち、鍛えては折り返し、火を入れて、また打ち鍛えるといった作業を繰り返しながら不純物を排除。形成していくという工程を行っていました。

 

日本刀の基礎を築いた日本独自の「たたら製鉄」

今や世界的な工芸・美術品として名高い日本刀誕生のきっかけは、「たたら製鉄」と呼ばれる日本古来の製鉄法にあります。たたら(蹈鞴)とは、もともと「ふいご」を意味する言葉で、金属を溶かす際、炉の温度を上げるために送風する道具のことです。言葉自体、大変古いもののようで、動物の皮や木の板を使った、足踏み式のものが使われていたといいます。

 

たたら製鉄の特色は、原料として鉄の含有量が高い砂鉄を用い、木炭の燃焼熱によって砂鉄を還元している点で、中世に入ると「ケラ押し法(直接製鉄法)」「ズク(銑鉄)押し法」という2つの方法が用いられます。

 

・ケラ押し法(直接製鉄法)

原料は酸性岩類の花崗岩系を母岩とし、チタン分が少ない真砂(まさ)砂鉄。砂鉄からいきなり鋼を作る低温還元(1300℃~1500℃)の製鉄法で、操業開始から終了まで三昼夜(約70時間)かかるので三日押しともいわれています。最初に低融点で還元性のよい籠り砂鉄を投入、次に木炭を投入して燃焼させ、ノロ(鉄滓:鉄を製錬する際に出る不純物のこと)を作製。さらに炉の温度を上げると、ノロだけでなくズク(銑鉄(せんてつ):鉄鉱石を溶鉱炉で還元して取り出した鉄。硬くてもろい)もできます。

 

真砂砂鉄の配合を増していくと、ケラ種ができ、さらに加えると大きく成長していきます。

出来上がったケラは鋼のもととなり、鍛えたり、焼きを入れて硬くすることが可能なため、昔から刃物や工具などに用いられてきました。このケラの中から選別された良質の鋼材(含有炭素量が約0.3~1.5%)が、日本刀の原材料として欠かせない「玉鋼(たまはがね。和鋼 (わはがね )とも」なのです。

 

・ズク(銑鉄)押し法

ケラ押し法が真砂砂鉄を使うのに対し、ズク押し法は原料砂鉄に赤目砂鉄(塩基性岩類の閃緑岩(せんりょくがん)系を母岩とし、チタン分が多い)が使われます。木炭を装入した後、砂鉄を入れるのも特徴で、ズク押し法では、ノロと共に目的物のズクが生成されます。ズクは炭素量が高く、溶け易いので鋳物にも利用しますが、その後、大鍛冶(おおかじ)場でズグの炭素量を減らして、「左下鉄(さげがね)」と呼ばれる鋼や、さらに炭素を下げて軟らかくした包丁鉄に用いられました。

 

上記のように、たたら製鉄で製造された和鋼は「鍛接(錬鉄や軟鋼、銅、アルミニウムといった金属の接合部を加熱。つち打ち、プレス、ロールなどで圧力をかけ、接合する方法)しやすい」「熱処理により硬く、曲がらず、粘り強くできる」「研磨しやすいため、良い刃付けが可能」「錆びにくい」「焼き境がはっきり出るため、(日本刀で)美しい刃文が付く」という性質を持っています。日本刀が、他に類を見ない鋼製品といえるのは、このためです。

 

日本刀に欠かせない鍛錬法の特色

日本刀は、たたら製鉄によって生成された「玉鋼」を基本に、数多くの工程によって製作されます。「折れず、曲がらず、よく切れる」という条件を満たすために、独特の鍛錬法が用いられますが、中でも下記の工程が良く知られています。

 

・積み沸かし(つみわかし):玉鋼を厚さ3mm程度に打ちのばし、小割にしたものを積み重ね、約1300℃に加熱して鍛接(金属を加熱して接合する方法)する。

・折り返し鍛錬(おりかえしたんれん):地鉄の真ん中に、鏨(たがね)を入れて二つに折返し、約1300℃に加熱して鍛接。これを12~15回程度行うことで、不純物や余分な炭素などが取り除かれ、複数の層を有する均質かつ強い鋼(皮鉄)が仕上がる。

・造り込み(つくりこみ):炭素量の少ない鋼、または鉄を数回の折り返し鍛錬した「心鉄(しんがね。芯鉄とも。刀が折れないように、芯の部分にいれる地鉄)」を、皮鉄に包み込んで組みわせる。その後、素延べ(すのべ。平たい棒状に打ち延ばすこと)」、「火造り(ひづくり。刀身の切先を斜めに切り、小槌で叩きながら形状を整える)」、「生砥ぎ(なまとぎ。刀身の表面をヤスリなどで、表面の小さな凹凸がなくなるように磨くこと)」を行い、形状を整えていく。

・土置き(土取り):耐火性の粘土に木炭の細粉、砥石の細粉を混ぜて焼刃土を作り、焼きの入る部分は薄く、他は厚く塗っていく。刃文の模様に応じて、土の配合具合や塗り方を工夫。

・焼入れ:土置した刀身を約800℃に熱し、水で急冷することで、必要な部分の強度を増してよく斬れるように仕上げる作業。これにより、焼刃土を薄く塗ったところはマルテンサイト(鋼を高温から比較的速い速度で冷却したとき、拡散を伴わずに生じる組織)という硬い組織、厚い部分はトルースタイト(炭素鋼のフェライトとセメンタイトの混合組織)という少し柔軟性のある組織に変態。なお、マルテンサイトの組織が大きく膨張することにより、刀に反りが生じる。なお、焼き入れの際は水の温度も重要で、温度が低いとひび割れの原因になり、高いと十分に硬化しない。そのため、水の温度は各流派の秘伝の1つとされている。

 

焼き入れ後、仕上げの「研ぎ(砥ぎ師により地肌模様、刃文などの美的要素を表現)」と「銘切り(刀匠自らが粗砥ぎして、出来映えを確認して銘を切る)」を施すことで、一振りの日本刀が完成します。刀鍛冶の持つ繊細かつ高度な技術は、長い歴史を経て、今の国内のものつくりに影響を与えてきました。武器を芸術品に昇華した究極の日本刀を、機会があれば見学してみてはいかがでしょう。

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