ドラマを演出する機械式ゲート。競馬の公正と安全を担う発馬機の歴史

2020/04/30

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ナイターの開催やイメージアップCMなども手伝って、今や競馬は身近なレジャーといっても過言ではありません。勝馬投票券にこだわらず、レースを見ながら食事を楽しめる、コンサートや各種イベントも開催されることから、幅広いファンが足を運んでいます。さらに子ども向けの遊具やアミューズメント施設が設けられている競馬場もあり、家族連れも少なくないようです。

 

楽しみ方は多様化しても、やはり競馬の主役は「レース」。ターフ(芝コース)やダート(砂のコース)を舞台に、競走馬、騎手、スタッフ、馬主、各関係者の想いがひとつになって繰り広げる競争の価値は、「東京優駿(日本ダービー)」に代表される重賞だろうと、下級の条件戦であろうと変わりません。

 

そのレースを、安全かつ公正に行うために必要不可欠な機器が「発馬機(スターティング・ゲート)」です。これは、すべての馬が同じ条件で一斉にスタートを切れるように作られたゲート式の設備で、全国ほとんどの競馬場で利用されています。

 

発馬機のない時代には、競走馬が一線に並んでスタートする方法が取られていましたが、タイミングが合わないなど、トラブルが起きることも少なくなかったといいます。そのような問題を解消するため、先人たちは様々な工夫を凝らし、現在のような発馬機を誕生させたのです。

 

映画『ベン・ハー』に描かれた競馬のルーツ

人が馬と暮らし始めたのは、少なくとも5500年前頃ではないかと考えられています。最初に家畜化したのは、ユーラシア大陸の草原(現・カザフスタン)に暮らしていた人々(ボタイ人。諸説あり)だったといわれ、ボタイ遺跡からは「銜(はみ。馬を制御するための馬具)」痕が付いた頭蓋骨、馬の脂肪、馬乳に由来する脂肪酸が検出されているそうです。

 

当初は主に農耕、運送や乗用などに用いられた馬ですが、やがて国が興り、領地を争いなどが始まると、軍用としても利用されるようになります。紀元前2000年初頭、当時の出土品から、戦車(チャリオット:古代ギリシャ・ローマ・エジプトなどで使われた二輪戦車。一人乗りの二頭立て)が登場したと推定され、紀元前1500年前後には、騎馬や戦車を牽引させての戦いが始まりました。戦場での利用に伴い、貴族や権力者はより強い馬を求め、それらを競争させるようになります。紀元前16世紀、トトメス一世(第18代エジプト王朝)は戦利品の馬を競走させたと伝わり、紀元前9世紀には、騎馬・戦車軍団を作った、ヘブライ国王ソロモンが競走を楽しんだといわれています。

 

なお、古代に行われた戦車競走の様子は、ユダヤ人青年ベン・ハー(演:チャールトン・ヘストン)の半生を描く歴史スペクタクル映画『ベン・ハー(アメリカ映画。1959年。ウィリアム・ワイラー監督)』で知ることができます。4頭立ての戦車を駆り、ライバル、メッサラ(スティーヴン・ボイド)と繰り広げる大戦車競走は、まさに戦闘。原作を書いた作家ルー・ウォーレス(アメリカ。1827年~1905年)は、戦車競走について、アテネの悲劇作家ソポクレス(ソフォクレスとも。紀元前496?年~紀元前406年)の悲劇『エレクトラ』に着想を得たそうですから、観客の集まるレースが行われていたのでしょう。※注『ベン・ハー』は何度か映像化されています。

 

光源氏も競馬を楽しんでいた?

日本でも、古くから馬は家畜として、農耕や輸送、乗用などに使用されていました。それらは大陸から渡来した馬で、現在では在来種として「吐噶喇(とから)馬」「北海道和種」「御崎馬(国の天然記念物)」「木曾馬」などが残っています。奈良、平安時代になると、朝廷や貴族間で「競馬(「くらべうま」と読む。ただし、こまくらべ・きそいうま・きおいうまなどともいう)」と呼ばれる競争が行われていました。当時の競争は今でいうマッチレース(左右に分れて、それぞれ1騎ずつが速さを競い、10番勝負で左右いずれかの勝敗を決める)、また、現在の競馬と同様、10騎を一斉に走らせる形式もあったそうです。

 

古い競馬の記録としては、大宝元年(701年)5月5日、「群臣も集まり天皇に競馬を献上した」という記述が『続日本紀(六国史のひとつ。文武1年(697年)~延暦10年(791年)までの正史)』に残っています。その後、「端午の節句(朝廷で催された宴会・五節会のひとつ)」には宮中の「武徳殿(射場(いば)殿、馬場殿ともいう。天皇が武技や駒牽 (こまひき) などを観閲した場所)」で競馬が開かれるようになりました。当初は儀礼や儀式、宗教的側面の強いもので、勝者は禄を賜り、敗者は物を献じるのが当時のしきたりだったといいます。平安中期の政治家で、『源氏物語(紫式部著)』の主役・光源氏のモデルとされる藤原道長(康保3年(966年)~万寿4年(1027年)は自邸で競馬を開催したようで、そのことが彼の日記『御堂関白記』に記されています。また、道長以外の上級貴族も競馬の大会を催しており、次第に娯楽化していったようです。ただ、競馬を楽しむのは皇族や貴族に限られ、庶民には広まりませんでした。

 

庶民の娯楽となった「神前競馬」と「祭典競馬」

宮中競馬が行われる一方で、競馬は諸神社の祭儀(神前競馬)として、また貴族の私営馬場や路上でも行なわれはじめ、庶民も競馬を観戦できるようになります。鎌倉時代になると、武士の多い関東では、流鏑馬や笠懸、犬追物が盛んに催されたそうです。神前競馬は続けられており、兼好法師(吉田兼好。鎌倉末・南北朝時代の歌人・随筆家・遁世者。弘安6年(1283年)~観応3年(1352年))は随筆集『徒然草』に、京都で競馬を訪れた時のことを書いています。

 

一般大衆の娯楽になった競馬は、江戸時代になると全国に広がり、著名な神社仏閣のみならず、小さな村の鎮守においても「祭典競馬(神社などの祭典において、奉納や余興のために催された競馬)」)が行なわれるようになります。また、馬で有名な藩や地域では、馬産振興のための競馬も催しました。

 

近代競馬の始まり

馬の速さや能力を比べる競馬は、すでに紀元前から存在していましたが、現在、世界各国で行われている「近代競馬発祥の地」といえば「イギリス」です。イギリス最初のレースは1377年、ニューマーケットにおけるリチャード2世(1367年~1400年。当時は皇太子)とアランデル伯爵(1353年~1414年。アルンデルとも。後のカンタベリー大司教)のマッチレースだとされています。ただ、それ以前、獅子心王と呼ばれるリチャード1世(1157年~1199年)は競馬に興味を持っていたそうで、ロンドンでレースを開催したといいます。競馬は王室を中心に発展を続けることになりますが、ヘンリー8世(1491~1547年)もそのひとりで、現存する世界最古の競馬場「チェスター競馬場」は彼の在位中、1540年に完成しました。16世紀後半のイギリスでは、10数カ所で競馬が開催されるようになり、父ヘンリー8世同様、競馬を愛したエリザベス1世(1533年~1603年)もレースを観戦したそうです。

 

貴族たちの間に広まった競馬が賭けを伴うようになると、より速く走る馬の需要が高まっていきます。そこで、1689年のバイアリータークを皮切りに、1706年にダーレーアラビアン、1730年にはゴドルフィンアラビアンという東洋種の牡馬(オス馬)を導入。在来種との交配を行うことで生まれたのが「サラブレッド」です。これらは「サラブレッドの三大始祖(三大種牡馬)」といわれ、現在、世界で登録されているサラブレッドの血統は、すべて3頭に遡ることができます。後年のクラッシクレースが誕生するのも17~18世紀で、「ダービー(1780年)」「オークス(1779年)」をはじめ、世界的に有名なレースが創設・整備されました。

 

1790年には「ブックメーカー(競馬やスポーツのほか、選挙やコンテストなどの結果を予想。それを対象として賭けを行う私企業。イギリスでは政府公認)」が登場。馬主やその関係者だけでなく、大衆も馬券を通じて競馬に参加することが出来るようになります。このようにイギリス人の娯楽として定着した競馬は、やがてアメリカやオーストラリア、カナダといった国々へ伝播していくのです。

 

日本の近代競馬への歩み

近代競馬が日本で最初に開催されたのは、1862年(文久2年)のことです。在留外国人が横浜市元町で行ったといわれ、1866年(慶応2年)には「根岸競馬場(後の横浜競馬場。現在、根岸競馬記念公苑内)」が設けられました。当初は外国人のみが洋式競馬を楽しんでいましたが、次第に日本人も参加するようになっていきます。1884年(明治17年)、上野の不忍池で行われた「不忍池競馬」、先述の根岸競馬場、目黒競馬場をはじめ、札幌、函館、宮崎、鹿児島といった馬産地に競馬場が設けられ、馬券も発売されました。ただ、ギャンブル性が強かったため非難と批判の声があがり、1908年(明治41年)、馬券発売禁止令が出ます。馬券ファンの支持を失った競馬は不振に陥り、馬の生産地にも影響を与えたことで、1923年(大正12年)、政府は競馬法案を成立。競馬は公益法人とし、勝馬投票券(馬券)の発売は、競馬法によって認可を受けた競馬団体(東京、横浜、中山、京都、阪神、宮崎、小倉、新潟、福島、札幌、函館)に限ることとなったのです。馬券を販売する競馬が復活しましたが、戦争の影が色濃くなる1936年(昭和11年)、競馬法案を機に設立された「帝国競馬協会」と11の競馬団体は解散。特殊法人「日本競馬会」が創立されます。その後も競馬は行われますが、1945年(昭和20年)には完全に中止されました。

 

しかし、戦後間もない1946年(昭和21年)、日本競馬会による競馬が再開され、同年に公布された「地方競馬法」によって、各地の公営競馬も始まります。ところが連合国軍から独占禁止法に違反するという指摘がなされ、1948年(昭和23年)に日本競馬会は解散。同年、競馬法に基づき、農林省の管理のもと国営競馬が行われます。その後、1954年(昭和29年)に民営へ移管され、公共性の強い特殊法人「日本中央競馬会(JRA。初代理事長は、「日本競馬の父」と呼ばれる安田伊左衛門(1872年(明治5年)~1958年(昭和33年))」が設立され、現在に至っています。

 

競馬ファンが開発したスターティングゲート

競馬(平地・障害)開催において、公正かつ安全なレースを行うため、なくてはならない設備が「発馬機(スターティングゲート)」です。基本的な仕組みは、出走馬が1頭ずつ各ゲートに入り、スターターの合図と共に前扉が一斉に開くとスタートできるというもの。近代競馬の始まりと比較すると、それほど長くはありませんが、60年以上の歴史を持ち、競馬場によっては独自のシステムを施している発馬機も存在します。

 

スターティングゲートが導入される以前、日本ではスターターが旗を振っていましたが、どうしてもフライングが頻発。公正な発走は難しい状況でした。そこで、明治40年(1907年)、オーストラリアから輸入されたのが「バリアー式ゲート」です。これは発走地点に幅数cmの白いテープを渡し、スタートのタイミングで前方上方に撥ね上げるもので、京浜競馬倶楽部(1906年(明治39年)、板垣退助を中心に設立。川崎競馬場で開催。明治43年(1910年))、東京競馬会ほかと統合し、「東京競馬倶楽部(かつて競馬を施行していた団体で競馬倶楽部のひとつ)」となる)をはじめ、全国で10か所を超える競馬倶楽部で採用されました。

 

1926年(昭和元年)から、東京競馬倶楽部でも「濠州式バリヤー」が使われるようになります。この設備は、綱をコースの内外にわたし、バネで斜め前上方にはね上げる仕組みで、おおよそ好評を博したといわれています。しかし、スタート地点でお互いに牽制。そのため馬が静止せず、回転・突進・他馬との接触が生じるなど、出遅れのトラブルも少なくありませんでした。発馬のアクシデントが原因で、一番人気馬(レース出走馬の中で、一番人気の高い馬)が出遅れると騒動に発展することもあったそうです。

 

日本では、戦後もバリアー式発馬機を使っていましたが、アメリカでは、馬を1頭ずつ収容する「箱形発馬機(クレイ・ピュエットが発明。1939年、カナダで初のレースが行われた)」が普及。日本においても導入が検討されることになったのです。

 

日本に初めてゲート式発馬機が登場したのは、1953年(昭和28年)、地方競馬の「大井競馬場(南関東地区)」でした。導入されたのは「宮道式(みやじしき)」と呼ばれる設備で、これを製作したのは、大井競馬場の近くで自動車修理工場を営んでいた宮道信雄(みやじ のぶお)氏。競馬が好きだった宮道氏はアメリカより個人で発馬機の特許を購入。自ら図面を引いて、それを競馬場に売り込んだそうです。なお、発馬機の名前は、開発者に因んで付けられました。

 

電光掲示板付きの発馬機?

大井競馬場の導入から遅れること7年の1960年(昭和35年)、中央競馬会は、ニュージーランドの「ウッド式(エドウィン・ハズウェル・ウッド考案)」という発馬機を採用します。これは馬の入る馬房の前後に扉があり、発走時に前扉を開いて馬がスタートさせるという、今も使用されている発馬機と同じ仕組み。機械の素材としては主枠にスチール・パイプとアルミニウム合金が使われていました。ただ、軽量で馬が暴れるとゲート全体が動いてしまう、一歩目で馬が脚元のパイプを踏むおそれがあったため、ウッド式を改良。1975年から、電動式で前扉が開く「JSG48型」を使用し、1985年、1990年、1995年、2000年、2007年と改良を重ね、現在は最新の「JSS40 型」が採用されています。

 

一見同じように見える「宮道式ゲート」と「JRAのゲート」ですが、宮道式は金具を使わず、電磁石の力のみで開閉しているため、馬が暴れても扉が開くだけで破損がおきにくく、メンテナンスが容易という点がメリットです。現在でも、南関東4競馬場(大井・船橋・川崎・浦和)、兵庫競馬(園田・姫路)、高知競馬といった地方競馬で、宮道式の改良型「宮道FM式」が使用されているそうです。JRAの発馬機は、軽量かつ拡張性は高くなっていますが、一方で馬のゲート突破などで金具が破損すると、外枠発走(ゲートの破損や暴れて他馬に影響を及ぼすと認められた馬を、出走馬の一番外側にまわして発走させること)といった競走結果にも関わるデメリットがあるといえます。

 

ちなみに高知競馬場では、電光掲示板付きの発馬機が、2015年頃から使われているそうです。馬の番号はもちろん、枠番ごとに色が表示される(白・黒・赤・青・黄・緑・橙・桃)、イベントやレース名を紹介するプレートがあるなど、他の競馬場にない工夫がなされています。安全と公正を目的に生み出された発馬機ですが、今度は見た目やエンターテインメント性も含めた改良が重ねられるかもしれません。

 

参考サイト

株式会社 日本製鋼所

東海バネ工業

JRA発走委員(プロローグ)『時代ごとに進化してきた“ゲート”の歴史』

日本スターティング・システム株式会社

TCKヒストリー

日本競馬 闇の抗争事件簿

ブリヂストン

パナソニック 大井競馬場

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居留外国人が切望した本格的な洋式競馬場

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