日本古来の工芸品、錺(かざり)かんざしの歴史と技術

2020/05/08

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縄文時代はかんざしの宝庫? 装身具の始まりは旧石器時代

今でいうアクセサリー(装身具)の基本は、先史時代(人類が文字を持たず、文献的史料の存在しない時代。日本では旧石器時代から弥生時代を指す)に確立していたと考えられています。もともとは身を飾るものではなく、「災厄から身を守る」「自然のパワーを得る」といった宗教や呪術に使われ、次第に装飾目的として発展していったようです。古代人が装飾品に用いたのは、動物の骨や牙、角、貝がら、ヒスイ(翡翠)などの天然素材でした。種類も豊富で、櫛やかんざしをはじめ、腕輪、耳飾り、首飾りといった装身具を身に着けていたことがわかっています。

 

時代が下り、世界各地に古代エジプト、メソポタミア、アステカ、マヤに代表される文明が起こると、装身具は自身を引き立てるもの、富や権力を誇示するものとしても珍重されるようになります。宝石をあしらったものはもちろん、紀元前4000年頃、エジプトやメソポタミア地方で生まれた(諸説あり)とされる金属加工技術によって、金や銀を細工した指輪やネックレス、耳飾り、ブレスレット(腕輪)、頭飾りなども作られ、古代人たちを華やかに彩りました。

 

日本も同様、祭祀に利用されていた装身具は、縄文時代になると、自らを飾る道具へと変化していきました。当時の遺跡からは着飾った埴輪、多種多様な腕輪や耳飾り、ネックレス、櫛などが出土し、縄文人が日常的に装身具を身に付けていたことがわかります。

 

角や骨、木などを用いたかんざしも作られており、玉状の飾りや彩色が施されているものも出土していることから、これで髪を結っていた可能性があるといわれています。この頃のかんざしは、先端が尖ったもの、へら状のものがあり、前者は先端が針状、または二股に分かれた形になっていました。なお、古代の人たちは、先の尖った細い棒には呪力が宿り、髪に刺すことで魔を払うことができるとも考えたようです。

 

ちなみに「かんざし」の語源には諸説あり、最初は「髪挿し(かみざし)」と呼ばれていたが、後に「かんざし」に変化した、平安時代に祝宴などで、髪に花や葉を飾る「花挿し」という習慣が「かんざし」になったという説が有力のようです。

 

推古天皇の代、聖徳太子が中国の隋へ「遣隋使」を派遣したことから、中国文化が日本へ輸入されるようになります。682年(天武天皇11年)、天武天皇(舒明3年? (631年)~朱鳥1年(686年))が大陸にならい、「男女、ことごとく髪上げよ」と命じたことから、以後、男性は髻と冠・烏帽子が定番に、女官など女性の髪形も結い髪へと変わります。ただ、女性の髪上げは、なかなか広まらなかったようです。

 

これが普及したのは、文武天皇の時代、701年(大宝1年)に発布された「大宝律令(古代の法制の一つ。大宝1年(701年)に完成)」の「衣服令」が発布されてからでした。奈良時代(710年~794年)に入ると、遣唐使(7~9世紀に朝廷が唐に派遣した公式使節)により、現在の櫛のルーツだという「横長の挽き櫛」、「二本足の釵子(さいし)」という髪留めも「簪」の漢字とともに伝来。これに「髪さし」~かんざしの読み仮名が当てられたようです。

 

日本独自の文化によって消えた「かんざし」

延暦13年(794年)、桓武天皇は長岡京から平安京へ遷都を行い、約400年続く平安時代が始まります。とはいえ、移ってしばらくの間、文化や服装などは唐の影響が強く、奈良時代そのまま。「源氏物語」や「枕草子」に登場する、雅びな貴族文化が花開くのは、平安時代中期以降のことでした。きっかけのひとつは寛平6 年(894年)、唐の国力が衰えたことや航路の危険などを理由に、菅原道真が中央に遣唐使の中止を進言したためです。その後は船を出すこともなく、遣唐使は廃止。中国との交流がなくなったことから、日本には「寝殿造り」「大和絵」「仏像彫刻」などに代表される独自の文化が発展していきます。これを「唐風文化」に対して「国風文化」と呼び、紫式部(源氏物語を執筆)や清少納言(枕草子の作者)といった、女流作家の用いた「仮名文字(草書体を崩したひらがな、漢字の一部から発生したカタカナなど)」も代表的なものといえるでしょう。

 

女性の髪形や装束も変化し、10世紀頃には、一般的に「十二単」と呼ばれる「裳唐衣(唐衣・裳・表衣 (うわぎ)・打衣 (うちぎぬ)・袿 (うちき) ・単衣 (ひとえぎぬ)・袴などで構成されている)」が、貴族女性に定着していきます。髪型は「源氏物語」や絵巻物などでお馴染みの、長く伸ばして、結い上げずに垂らした「垂髪(下げ髪、垂れ髪ともいう)」が定番となり、長さが7~8尺(2m超)になることもあったそうです。長く豊かな黒髪は、平安時代の美しさのシンボルだったため、生まれてから伸ばし続けるのが一般的で、中には7mを誇る女性もいたというから驚きです。

 

髪の毛を伸ばすことが、どうして美につながったのか?というと、白粉を塗った白い顔が際立つと考えられたからのようです。また、髪には霊力が宿ると信じられていたことも追い風になったのかもしれません。ただ、垂髪は長い黒髪や白い肌が優雅な暮らしの象徴だった貴族女性に限られ、庶民の女性は家事や仕事の邪魔にならないよう、髪は長くても腰まで、また束ねたり、後ろで結っていました。

 

垂髪が主流になると、礼装である「大垂髪(おすべらかし、または、おおすべらかし)」などを除き、櫛やかんざしは髪を飾るものではなく、梳くための実用品になり、それに伴い、かんざしは衰退していきました。

 

遊女の「唐輪髷」が日本髪の原型

垂髪中心の時代は長く続き、次に結髪が一般化するのは戦国時代末期のことです。時代が鎌倉へと変わり、武士の世の中になると、女性のいでたちも活動的になっていきます。特に一般女性たちは、家事や労働をしやすいように髪を束ね始め、髪を一本に結んだ「下げ髪」、髪を一本に結び、先を輪に結んだ「玉結び」などが登場しました。時代が下がるにつれ、髪を結ぶ位置も高くなり、やがて上流階級から一般庶民にまで広がっていきます。

 

安土桃山時代の天正期(1573~1592年頃)になると、女歌舞伎や遊女らの間で、前髪を真ん中で分け、頭上で2~4つの輪を作って高く結い上げる「唐輪髷(からわまげ)」が流行。明(当時の中国)の女性の髷を真似たことから、この名がついたそうです。唐輪髷は日本髪の原型といわれ、ここから「兵庫髷(ひょうごまげ)」「島田髷(しまだまげ)」「勝山髷(かつやままげ)」「笄髷(こうがいまげ)」という4つの髪型が誕生。公家や上級武家の女性たちは垂髪でしたが、これらの髷は一般市民に広がっていきます。

 

多種多様化する江戸時代のかんざし

江戸時代になると、唐輪髷に始まった結い髪は多様化。年齢や職業、身分、未婚・既婚などで結う髪型が決まっていたことから、その種類は数百種にもおよんだといわれています。それに伴い、垂髪では用いられなかった櫛やかんざし、笄といった髪飾りが復活。本体には金属(銀、錫、真鍮、明治のプラチナほか)をはじめ、ガラス、鼈甲、香木(伽羅、白檀)、牛馬のひづめが使われ、装飾部分には貴金属、貴石、琥珀、珊瑚、ガラスなどをあしらい、髪型、職業や年齢に合せて、種類豊富なかんざしが作られました。主なかんざしには、次のようなものがあります。

 

  • 平打簪:薄く平たい銀製(特に銀平と呼ぶこともある)が主で、枠(円形・亀甲形・菱形・花型ほか)の中に、透かし彫りや毛彫りで定紋・花文などを施したもの。鼈甲、象牙なども用いられた。
  • 玉簪:江戸時代から現在まで用いられている、耳掻き簪に玉を一つ挿したシンプルなかんざし。1本足と2本足のものがある。
  • チリカン:飾り部分がバネ(スプリング)で支えられているため、ゆらゆらと揺れるのが特徴。芸者が多く用いている。
  • ビラカン:現在も舞妓が使用しており、主に金属製。扇子や丸い形状の周囲に、細長い板状のビラが下がっている。
  • 吉丁(よしちょう):意匠のつかない簪で、素材も金属製、鼈甲が主流。江戸時代に流行したが、古代から存在しており、古墳からの出土品の中にも見られる。江戸時代、多くの吉丁を髮に差す遊女の絵が残っている。
  • びらびら簪:未婚女性向けのかんざしで、江戸時代(寛政年間)に登場。本体から何本も下がった鎖に蝶や鳥などの飾りが付き、華やかな造りになっている。
  • 錺かんざし:上記に該当しないかんざしで、金属の板や線を切り出し、彫り、打ち出し、ロウ付け(溶接)などの技巧を凝らしたもの。花鳥風月をはじめ、身近な器物、野菜や小動物なども意匠として用いられた。
  • つまみかんざし:小さい布を折りたたみ、幾重にも重ねて花などを作り、かんざしに付けたもの。「花簪」とも呼ばれる。

 

江戸時代に起こった、かんざしの隆盛に拍車をかけたのは、当時のファッションリーダーであった、花魁(遊女)や歌舞伎俳優たちです。中でも京都の遊廓・島原の遊女は多数のかんざし、櫛や笄で飾り立て、髪飾りだけで6kgもあったといいます。江戸の女性らは、彼らを描いた浮世絵などを手に入れ、最新の化粧、髪型、髪飾りを真似したそうです。

 

なお、かんざしには「耳かき」?が付いていたものもありました。これは実際に耳かきとして使われたと同時に、職人たちが幕府による「奢侈禁止令(老中・水野忠邦によって行われた政治改革「天保の改革」で発布された贅沢禁止令)」から逃れるための建前だったそうです。

 

「錺」(かざり)の技術を凝縮した江戸時代のかんざし

長く続いた垂髪の時代に廃れていたかんざしが、結い髪が主流になったとはいえ、江戸時代に一躍脚光を浴び、後期に全盛期を迎えたのは、「錺職人(錺師ともいう)」の存在があったからだといえます。錺とは、金属板をたたいて造形する「鎚起(ついき)」という金属加工技術ですが、その歴史は古く、弥生時代(紀元前10世紀頃~紀元3世紀中頃)に作られた金属製の装飾品が残されています。古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)末期以降、金属の装身具は廃れてしまいますが、最古のものといわれる国宝「法隆寺金堂」をはじめ、建物や神輿を飾る金、銀、銅細工の技術は時代を追うごとに発展。彫金、細金細工、鑞付け、鍍金などの金属表面処理の技法も取り入れながら後世に伝えられ、安土桃山から江戸にかけて、様ざまなものが作られるようになりました。そして、装飾品の人気が高まった江戸時代に入り、錺職人の中でも専門の職人が技術の粋を凝らし、腕を競い合う中で生まれたのが、金属を用いた錺かんざしなのです。

 

洋装が当たり前になった現代、かんざし自体は成人式や結婚式など、和装の時にしか使われなくなりました。しかし、かんざしを含めた錺細工は日本が誇る工芸品として、海外でも注目されており、工房などには多くの観光客が足を運んでいるそうです。

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