硬貨の始まりの歴史|人類史上最大のイノベーションの裏側にあったものづくりの労苦とは?

2019/12/05

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硬貨(貨幣)は物々交換から生まれた

普段、当たり前のように使っている硬貨(貨幣)ですが、いつ頃から使用されるようになったのか、どこで誰が作ったのかは、今のところはっきりとはわかっていません。貨幣がなかった時代、人々は物と物を交換する、いわゆる「物々交換」をしていたと考えられています。しかし、この方法では、お互いの欲しい物が必ずしも一致しないこともありました。そこで用いられたのが、自分の持ち物を米や塩、布、家畜などに替えておき、それらを相手の持ち物と交換する「物品貨幣(商品貨幣、貨物貨幣ともよばれる)」です。ただ、塩や米といった物品には、保管や持ち運びが難しく、そこで貝や金属が使われるようになったのが、貨幣の始まりだといわれています。

 

貨幣についての最も古い記録は、今から4500年前の古代メソポタミア(チグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域で、世界四大文明発祥地のひとつ)の記述に残されています。紀元前2000年頃、メソポタミアの人々は、穀物などの収穫物を神殿の倉庫に保管し管理していました。その時、預かり証に用いられたのが、収穫物の重量に応じた「銀」でした。逆に穀物が必要な場合は、倉庫へ銀を持っていけば交換してもらえるというシステムが、古代メソポタミアには確立していたのです。交換に使う銀は一定の重さで袋に入れ、使用したといいます。後に銀の重量は価値を表す単位となり、通貨単位へと変わっていきました。これが「硬貨」の始まりだと考えられています。

 

初期の硬貨は、現在のように硬貨自体に一定の価値があったわけではなく、取引をする際、銀や金などの重さをはかり、その重さを価値の単位として支払うシステムが用いられました。このように重さをはかり、その重量によって価値を決めて使用する貨幣を「称量貨幣」といいます。これに対して、種類ごとに一定の品位と重量とを有し、同じ形状に鋳造した表面に価格が表示されたものが「計数貨幣」です。額面や個数によって計算できる計数貨幣のシステムは、現在、日本を含めた多くの国の硬貨に用いられています。

 

ちなみに古代中国、殷王朝(?~紀元前1122/1027 年。中国最古の王朝。商ともいう)と周王朝(紀元前1050頃~256年。武王が殷を滅ぼし、紀元前11世紀に建国)の時代には、「貝貨」が使われていました。これは物品貨幣で、貝殻の種類はいろいろありましたが、タカラガイ、コヤスガイが多かったようです。なお、お金や財産を表す「購・買・貯・貨・財・貯・買・贈・賭」といった漢字に「貝」という字が使われているのは、古代中国で貝貨が主流だったからだといいます。ということは、当時から「賄賂」も横行していた(!?)のかもしれません。

 

世界最古の鋳造貨幣

今までに発見されている硬貨の中で、最も古いものは、紀元前7世紀(紀元前670年)、小アジア西岸に栄えたリディア王国で作られた「エレクトラム硬貨」です。この硬貨は金(73%)と銀(27%)の合金から成り、ライオンの頭部とその硬貨の重さ(価値)が刻印されていました。エレクトラム硬貨の大きな特徴は、重量の異なる硬貨が複数作られていたことです。ちなみに硬貨の単位は「スタテル」で、1スタテル硬貨、6分の1スタテル硬貨、24分の1スタテル硬貨と、分数単位で表示されていました。そのため、取引するたびにいちいち天秤で計量する必要がなく、それまでに比べてはるかに便利だったのです。なお、リディア王国では、前550年に「金貨」も作られました。

 

リディア王国はイオニア地方に隣接、エーゲ海に面していたこともあり、交易が盛んで、商工業も発達していました。そのため、エレクトラム硬貨は古代ギリシャ、ローマへと広がっていき、特にアテネ(古代ギリシャの都市国家)では貨幣経済が発展します。さらに有名なアレキサンダー大王(紀元前356~紀元前323年。マケドニア王(在位:紀元前336~紀元前323年)が東方遠征(紀元前334年から紀元前323年まで、アケメネス朝ペルシアの支配する地域に行った大遠征)を行った際、西アジア地域にも伝わっていったそうです。

 

古代ギリシャのアテネでは、基本単位をドラクマとする銀貨が作られ、スパルタでは鉄貨が流通します。ドラクマ銀貨でよく知られたものは「テトラドラクマ銀貨(テトラ=4。つまり4ドラクマ銀貨)」で、表面には女神アテナ、裏側にはフクロウ(ミネルバのフクロウ)が刻印されています。また、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝(270年代前半~337年。専制君主政を確立し、強大な帝国を再建。在位は306~337年)は「ソリドゥス金貨(金保有量は 4.48g=1/72ローマ・ポンド)」を鋳造発行。帝国領の地中海域全域で流通させたことで、商業の活発化をもたらしました。なお、ドルを「$」と表記するのはラテン語の金貨を意味するソリドゥスの頭文字Sに由来するそうです。

 

鋳造技術が発展すると、中国でも紀元前8世紀頃から貝の代わりに金属を貨幣として使うようになります。ただ、当時の中国貨幣は農具や武器などを象った「布幣」や「刀幣」で、硬貨の形ではなく、あくまで「物品貨幣」でした。

 

その後も、古代ギリシャやローマのような金属を用いた硬貨は世界各地で作られるようになり、貨幣を中心とした経済が広まっていきます。

 

日本の貨幣は「和同開珎」から始まった?

7世紀末から8世紀にかけての日本は、唐(中国)の様々な制度を採り入れ、中央集権的な律令国家を目指していました。708年、黒谷(現在の秩父地域)で初めて和銅(ニギアカガネ。精錬を要しない自然銅)が産出されたことから、元号を「和銅」に改めるとともに始めた貨幣の鋳造もそのひとつです。この時、誕生したのが、621年に中国で作られた「開元通宝」に倣った「和同開珎(銀銭と銅銭)」で、これは日本最古の貨幣だとされています。

 

ただ、1998年(平成9年)に奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から、7世紀後半に作られたとされる「富本銭(ふほんせん)」と、これを鋳造するための鋳型やるつぼ、やすりなどが出土しました。富本銭は平城京跡や長野県高森町などでも発掘されていますが、お金としてではなく、まじないなど宗教的に使われた可能性もあるようです。そのため、富本銭が日本最古の貨幣であるか否か、現在も調査や研究が進められています。

 

和同開珎以後、朝廷は250年の間に12種類の貨幣を作りました。これらは「皇朝十二銭(奈良時代に3種、平安時代に9種)」と呼ばれますが、物品貨幣の生活に慣れていた人々は、金属貨幣になかなか馴染めなかったようです。また、銅不足から貨幣の質が落ちたことも手伝って、958年発行の「乾元大宝」を最後に、新たな銭貨は発行されることはありませんでした。

 

貨幣を復活させた戦国武将たち

その後はしばらく、米や絹などの物品貨幣が用いられていましたが、12世紀半ばになると、中国からの渡来銭(宋銭・明銭)が大量に流入し、国内でも使われるようになります。銭貨は人々の間で浸透し、商品経済も発達。中でも明(1368~1644年。朱元璋が元を倒して建国した中国の王朝)の「永楽通宝」は質が良く、16世紀後半頃から各種流通貨幣の価値を計る基準となっています。しかし、室町時代になると、渡来銭だけでは貨幣が不足したため、私鋳銭(公許を得ずに民間で鋳造された銭貨)が大量に作られるようになり、銭貨の流通は混乱しました。

 

16世紀以降、合戦には多くのお金が必要だったこともあり、戦国大名たちは鉱山開発に力を入れます。1567年には武田信玄が、日本初の金貨といわれる「甲州金」を鋳造。織田信長は金・銀・銭貨の比価を定めるなど、独自の金銀貨を鋳造するようになりました。さらに全国を平定した豊臣秀吉はこれまでの金判を統一し、重さ165gという世界最大の金貨「天正大判」を製造します。ただ、これらの多くは恩賜・贈答が目的であり、高額なために大名や公家達の間でしか使われず、一般人はその間も渡来銭を使用していました。

 

日本独自の「三貨制度」成立

秀吉の後を継いで天下人となり、幕府を開いた徳川家康は金銀山の支配を進め、貨幣制度の統一に着手。慶長6(1601)年に大きさ・重さ・品位(金銀の含有率)などを定めた「慶長金銀貨」を発行するなど、貨幣製造・体制の整備などを行います。寛永13年(1636年) 年、三代将軍・家光の時代には、長年鋳造されなかった銅貨(銭貨)、「寛永通宝」が作られ、さらに寛文10(1670) 年、幕府は渡来銭の通用を禁止。これにより、金貨・銀貨・銭貨による日本独自の貨幣体系「三貨制度」が成立したのです。なお、金貨には「両」「分」「朱」の種類があり、4進法がとられていました。銀貨には「丁銀(ちょうぎん)」「豆板銀(まめいたぎん)」が用いられ、これらは秤量貨幣でした。

 

◇1700年頃の三貨制度

・金貨(計数貨幣):1両=4分=16朱。(1両=銀60匁=銭(銅)4000文)

・銀貨(秤量貨幣):1匁=10分、1000匁=1貫(貫目、貫匁)

※秤量貨幣の単位「匁(もんめ)」は、重量の単位そのもの(1匁=約3.75g)

・銭貨(計数貨幣):1000文=1貫文

 

一方で、参勤交替などの出費により、各地の大名は財政が苦しくなったため、幕府の許可を受けて藩内限りに通用する「紙幣藩札」を発行していたそうです。

 

明治維新と円の登場

江戸幕府が瓦解すると、明治政府は、「富国強兵・殖産興業(近代産業育成)」をスローガンに掲げ、経済においては近代的な貨幣制度を確立することを目指します。明治4年(1871年)には「新貨条例」を制定。貨幣単位を「両・分・朱」から「円・銭・厘」とし、10進法の通貨制度を採用します。また同じ年、大阪に造幣局を建設し、西洋式の金貨5種、銀貨5種、銅貨4種を発行しました。

 

どうして「円」になったかというと、諸説ありますが、「それまで楕円、四角形だったお金の形が、すべて円形になったから」という説が有力のようです。なお「銭」という単位は、アメリカの「セント」を模倣したそうで、名付け親は政治家であり、早稲田大学の創立者・大隈重信だといわれています。

 

近代国家となった日本では、その後も様々な硬貨が発行され、現在に至っています。ただ、近年はクレジットカードの普及や電子マネーの発達で、世の中は「キャッシュレス」に流れつつあります。もしかしたら、近い将来、硬貨は博物館でしか見られなくなる時代が来るかもしれません。

 

参考資料

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