「電気」の発明の歴史とともにある「電線」の発明と歴史

2020/01/22

カテゴリー
しさく解体新書
キーワード

電気(静電気)を発見したのは「ギリシャの七賢人」

テレビやエアコンから、照明、冷蔵庫や洗濯機といった白物家電、スマートフォンやパソコンなどのIT機器まで、現代人は公私にかかわらず、毎日、電気製品を使って生活しています。また、電車などの交通機関、夜道を照らす街灯、高いビルで簡単に移動できるエレベーターやエスカレーターなど、当たり前のように利用している乗り物や各種機器の起動・動作にも電気が用いられているのは周知の通りで、現代人の暮らしをあらゆるところで支えています。そのため、電気が止まってしまうと、あらゆる面で支障をきたし、都市機能すらストップしてしまうことは、先だっての台風15号や台風19号、過去の地震で発生した大規模停電をみても明らかです。

 

現代社会にとって必要不可欠な電気は、いかにして発見されたのでしょう。その起源は今から2500年前、古代ギリシャにまでさかのぼります。古代ギリシャ人たちは、宝石として装飾などに使っていた「琥珀(マツ類の樹脂の化石)」に、ほこりが付きやすいことを知っていました。それを取ろうと擦ると、さらにほこりやごみ、糸くずなどが付くことに気付いたのは、ギリシャの哲学者タレス(紀元前624年頃~紀元前546年頃)です。彼は幾何学や天文学、土木技術などにも通じており、「タレスの定理(円の直径に対する円周角は直角であること)」を発見した功績をはじめ、日食の予言やピラミッドの高さの測定なども行ったことで知られ、ギリシャ七賢人の一人に数えられています。

 

「琥珀を磨くと、ものを吸い寄せる現象」の正体は「静電気(摩擦電気など、物体にたまったまま動かない電気。静電)」だったのですが、タレスは「磁気」によるものだとし、琥珀を天然磁石であると考えていました。なお、紀元前4世紀頃、古代ギリシャのプラトン(紀元前428年頃~紀元前348年頃。ギリシャの哲学者。ソクラテスの弟子)の後期対話篇『テイマイオス』には、琥珀が軽いものをひきつけることが記されているそうです。

 

神秘的な力の正体は「静電気」

琥珀に宿った神秘的で不思議な力が磁気ではないことに気付いたのは、16世紀のイタリア人の数学者ジェロラモ・カルダーノ(1501年~1576年。ジローラモ・カルダーノとも)でした。彼は、磁石が鉄しか引きつけないのに対し、摩擦した琥珀は軽い物体ならなんでも引きつけること、磁石は間に物体を置いても力を及ぼすのに、琥珀は物体を挟むと力を遮られてしまうことなどを観察。磁気現象と電気現象との区別を確立したそうです。

 

琥珀の電気的引力について、さらに研究を推し進めたのは、イギリス王立医学学校の教授でエリザベス一世の主治医であったウィリアム・ギルバート(1540~1603年)です。電気磁気学にも興味を持っていた彼は多忙な中でも様々な実験行い、それらを記した主著『磁石について(1600年出版。全6巻)』は、近代実験科学の古典になっています。ギルバートは磁石についての体型的な研究を進める中、ダイヤモンドやガラス、樹脂、宝石など、琥珀以外をこすっても軽い物を引き付けることを発見し、磁石の引力とは違う力「静電気」が働いていることを明確にしたのです。なお、磁気とは区別された力は、ギリシャ語で琥珀を意味する「エレクトロン(elektron)」から「エレクトリックelectric」と呼ばれ、ギルバートがこの名称を初めて用いています。なお、「electricity(電気)」は、そこから派生してできた言葉です。ギルバートは、その後の電気と磁石の研究に大きな影響を及ぼしたことから「電気と磁気の父」とも称されています。

 

電気研究の飛躍的な進歩

17世紀、ウィリアム・ギルバートの電磁気研究をはじめ、摩擦によって静電気を作る方法が発見されたことをきっかけに、科学者たちが機械的な「静電発電機(感応発電機)」を作製するようになります。これは、摩擦または静電誘導により電気を集める装置で、起電機とも呼ばれています。世界初の静電発電機(摩擦起電機)を発明したのは、ドイツの政治家・物理学者であるオットー・フォン・ゲーリケ(1602年~1686年)で、彼は真空の存在を実証するため真空ポンプを製作、諸実験(マクデブルクの半球実験(1657年)が有名)を行ったことでも知られた人物です。1660年頃に作られたゲーリケの起電機は、硫黄球を手で摩擦して静電気を得るものだったそうです。

 

1744年には、ライプチヒのJ.H.ウインクラーがゲーリックの発電機を改良し、放電火花を遠距離へ送ることに成功しました。彼はこの実験を通し、「その速度は弾丸よりも早く、絶縁された導体を用いると世界の果てまで送ることができるだろう」と語っています。ウインクラーの研究は、電気伝送~電線やケーブル誕生のきっかけとして高く評価されています。

 

ウインクラーをはじめ、18~19世紀には様々な実験が行われ、電気学の分野は飛躍的な進歩を遂げました。主な出来事には次のようなものがあります。

 

・1746年:オランダ、ライデン大学の科学者ピーテル・ファン・ミュッセンブルブルク(1692年~1761年)が、ライデン瓶(ガラス瓶の内側と外側に錫箔を貼り、金属棒を内部の錫箔に触れるように入れた蓄電器の一種)を放電実験に初めて使用。

・1752年:アメリカの政治家で物理学者でもあったベンジャミン・フランクリン(1706年~1790年)が雷の鳴る空に針金をつけたタコを揚げ、それを伝わってきた電気をライデン瓶にためる実験を行う。その結果、雷の正体が電気であることを発見。

・1775年:イタリアの物理学者アレッサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・アナスタージオ・ボルタ(1745年~1827年)によって、絶縁体の柄をもつ金属板をエボナイトの盆に載せ、静電気を集める「電気盆」が考案される。

・1791年:イタリアの医師・科学者ルイージ・ガルヴァーニ(1737年~1798年。ガルバーニとも)が、カエルの足を解剖した時、金属を当てたところ、カエルの足がけいれんすることを発見。カエルの体には電気を作る性質があると発表。

・1800年:前出のボルタが、電気を作るのはカエルではなく2種類の金属であることを発見。生物体に関係なく金属だけで電流が得られることを発表。銅を陽極、亜鉛を陰極とし、希硫酸を電解液とした一次電池(一回使用し終えたら使えなくなる電池)「ボルタ電堆(電池)」を発明する。これは電池の始まりで、ボルタの電堆によって、長時間電流を取り出すことが可能になった。1881年、ボルタの功績を記念し、電圧の基本単位が「ボルト(V)」と名付けられた。

・1820年:ハンス・クリスティアン・エルステッド(1777年~1851年。デンマークの物理学者・化学者)が電流の磁気作用(電流が流れると、周囲に磁場をつくる作用)を発見。フランスの物理学者アンドレ・マリー・アンペール(1775年~1836年)は、この新現象を理論的、数学的に説明することに成功し、「アンペールの規則」を発見。1822年に電流の相互作用を体系づけた「アンペールの法則」を発表する。その後の電気力学の発展の基礎を築いた彼の名は、1881年、電流の単位「アンペア」に採用されている。

・1831年:イギリスの物理学者・科学者マイケル・ファラデー(1791年~1867年)は、コイルに磁石を近づけたり遠ざけたりすると電気(誘導電流)が発生することを発見。この現象を「電磁誘導」、電磁誘導による起電力を「誘導起電力」といい、発電機やモーターなどに応用されている(ファラデーの電磁誘導の法則)。それまでは電池による小さな電力しか得られなかったが、これにより大規模な電力の発生が可能となった。また、連続して電気を取り出せる方法も見いだし、機械の力を電力に変えて使えるようなるなど、多くの功績から「電気学の父」と称されている。

・1837年:アメリカの画家・発明家として活躍したサミュエル・フィンリー・ブリース・モールス(1791年~1872年)米国人モールスが電信機を製作。また、モールスは文字の数だけ電線を張るような方式から、電流を切ったり流したりすることで電信を可能にした「モールス符号」を考案。この伝送方式は情報伝送の基礎となり、2000年まで使われた。なお、モールスは1841年、ゴム、麻およびタールピッチで被覆した電信用の海底電線を設計・製作。1842年、ニューヨーク港を横断して布設し、通信に成功している。

 

中でも、今日の電化生活の基礎を築いた人物といえば、発明王トーマス・アルバ・エジソン(1847年~1931年)でしょう。生涯を通しての発明品は、なんと約1300点。特に有名なものとしては、次のようなものがあります。

 

・1877年:音を記録・再生する「蓄音機(フォノグラフ)」を発明。

・1879年:木綿糸を炭化させた「カーボンフィラメント」を用いた電球を約40時間、連続点灯させる。

・1880年:竹フィラメントによる、白熱電球の長寿命化(600時間にまで延長)に成功。ちなみに世界の竹を調査して選ばれたのは、京都八幡村の竹だった。

・1889年:のぞき眼鏡式映写機「キネトスコープ」誕生。これはスクリーン上に映写するのではなく、箱の中を覗いて観る仕組みで、基本的には一人ずつしか鑑賞できなかった。なお、上映した動画も、エジソンが作った「キネトグラフ」によって撮影された。

 

また、電話機の実用化(距離が離れると音が不明瞭になる電話を、長距離通話可能にした)、発送配電機器、配電方式の設計を行い、1882年には、エジソン電気照明会社(ゼネラル・エレクトリック(略称: GE)社の前身)を創設、さらに世界最初の大規模な中央発電所(パール・ストリート・ステーション)を開設。同じ年の9月4日、初の送電が実施されました。当初、給電された電灯の数は400個ほど。それがわずか1年後には、10000個を超えるまでに急成長したといいます。メンロパークに研究所があったことから、「メンロパークの魔術師」とも呼ばれたエジソンは、電気事業の先駆けとなったのです。

 

日本の電気学のきっかけは、平賀源内の「エレキテル」

日本が西洋の科学や文化を取り入れるのは、明治維新以後のことだと思う人は少なくないようです。しかし、江戸時代の学者や徳川幕府の要人、有力大名は、現代人の想像以上に、海の向こうの情報を収集していました。また、長崎を訪れる外国人がもたらす舶来品が献上されたり、商人たちの間で取引されることも少なくなかったようです。

 

時計などの機械類もそのひとつで、よく知られているのが、1776年(安永5年)、本草学者、蘭学者、戯作者、蘭画家、発明家ほかの肩書きを持ち、あらゆる分野で才能を発揮した平賀源内(1728年(享保13年)~1780年(安永8年))によって修理された蓄電器つきの摩擦起電器(静電気発生装置)「エレキテル」でしょう。これはオランダで発明され、宮廷での見世物(現在の静電気実験)や医療器具(電気ショック治療)として用いられていた機器で、1751年(宝暦元年)頃、オランダ人が江戸幕府に献上したのだそうです。

 

源内が長崎で入手し、復元したエレキテルは、1768年、ロンドンで精密機械を作っていたジェシー・ラムスデン製作の摩擦起電機に類するものと考えられています。ガラスと錫箔とを摩擦して静電気を起こす仕組みになっており、日本で最も古い電気機器とされています。目の前で火花放電を見た江戸の人たちは、とても驚いたことでしょう。その一方で、源内は複数のエレキテルを職人に作らせ、医療用具として大名や富豪の前で実験を行ったのですが、思ったほどの後援者は得られなかったそうです。しかし、これらは後に、日本で初めて電気を科学的に研究し、『阿蘭陀始制エレキテル究理原』などの本を書いた蘭学者・橋本宗吉(1763年(明和元年)~1836年(天保7年)といった学者や識者たちに受け継がれ、日本の電気学のきっかけになりました。

 

幕末の1854年(安政元年)には、モールスが発明した「電信機」が、アメリカの東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(1794年~1858年)によって、日本にもたらされています。目録によると電信機2座、電信線4把、ガタパーチャ線1箱、碍子などが江戸幕府将軍家に献上されたようです。横浜で電信機の公開実験が行われたことをきっかけに、佐賀藩をはじめ、薩摩藩、伊予大洲藩などでも電信機の調査を開始。諸藩で実験が催されるようになりました。ちなみに電信機はアメリカだけでなく、オランダ、プロシア(現在のロシア)、フランス、スイスなどからも贈られたといいます。幕府も天文方(幕府の天文・暦術・地誌・測量・洋書翻訳などを司った職)の「蕃書和解御用掛(江戸幕府の翻訳機関。1811年(文化8年)に設置。のちに洋学所、蕃書調所となる)電信機の調査を命じ、長崎で講習が行われます。その結果、1855年(安政2年)、江戸城においての電信機実験に成功したそうです。また、長崎の海軍伝習所(1885年(安政2年)、幕府が洋式海軍創設のため、長崎に開設。勝海舟らが学んだことでも有名)には、オランダの電信機についての講習(組み立て、操作法など)がありました。

 

ところが、ペリー来航以前の1849年(嘉永2年)、幕末の思想家・兵学者である佐久間象山(1811年(文化8年)~1864(文久4年))によって、日本初の電信機が作られていたのです。象山はオランダ語を独学、『ショメール百科全書(フランス人、ノエル・ショメールが著した百科事典)』を参考にして電信機を製作。松代藩鐘楼から御使者屋の70mに電線を張り、電信実験に行いました。この時使用した絹巻電線も象山自身が作ったものといわれています。なお、この実験で象山は、「サクマシュリ」という文字を送ったそうです。

 

明治時代になると、政府の「文明開化」「富国強兵」という政策も手伝って、日本でも工業が盛んになります。そのため、電線が必要になるのですが、国内では古くから銅線作りが行われており、14世紀頃には銅棒から作るようになったといわれています。ダイス(入口側が太くて出口側が細い、円錐形の穴をもつ工具)を使い、水車を動力とした銅線製造は、京都の白川村、埼玉県の膝折(現・朝霞市)が最も古いそうですが、起源ははっきりわかっていません。記録がはっきりしているものとしては、1832年(天保3年)、大阪で「平川製線(現:理研電線株式会社)」の先祖が銅線を製造しており、また、1854年(安政元年)には、京都で「津田電線」の創業者・津田幸兵衛が、高野川で水車を使った銅線引き工場を始めています。なお、津田電線では当初、京都の町屋や寺社の屋根瓦を固定するために銅線を作っていたそうで、分銅などの銅細工も制作していました。明治以後は、それらの技術が電線に生かされていくことになります。

 

電線の主役は、人類の進歩と文化に欠かせない「銅」そして・・?

先に紹介した人物をはじめ、電気の発展には数多の科学者や人物が寄与しています。その際、彼らが実験に使用した道具や材料には、「銅」が多く用いられていました。1800年代後半になると、銅は電線の主要な材料となります。

 

もともと銅は、人類が初めて利用した金属で、紀元前7000~8000年前の新石器時代、自然銅の形で偶然に発見されました。紀元前6000年頃には「鋳造技術」を手に入れ、様々な形に加工できるようになり、やがて青銅器文化を生み出します。それを裏付けるように、紀元前5000年頃のエジプト遺跡からは、銅製の武器や装飾品、多彩な道具が出土。また紀元前3800年頃には、古代エジプト第4王朝 (前2613年頃~2494年頃) の初代王スネフルが、シナイ半島(現エジプト北東部)で銅鉱石を採掘したという記録があり、るつぼ(金属を溶かすときに使うつぼ)も発見されていることから、 銅精錬技術を持っていたことがわかります。さらに紀元前2750年頃、エジプトのアプシル神殿では、銅を叩いて薄い板にのばし、管の形に丸めた給水管が使われていました。

 

古代より銅が様々な用途に用いられた理由は、その特徴にあります。

 

・通電性が高く、電気抵抗が小さい

・熱伝導率が高い

・非磁性や防食性に優れている

・低温に強い

・柔らかく延ばしやすいため、加工しやすい

 

このような性質から、銅は電線をはじめ、鍋などの調理用具、硬貨といった身近なものから、冷蔵庫やエアコンの伝熱管、ICチップと基盤とを繋ぐ超極細線、銅箔で作られる配線基板、コネクターのばね材など、電気を通す機器用素材に至るまで幅広く使われています。また、電線は銅線中心で発展していきましたが、戦後になると新しい材料が登場。中でもアルミニウムやアルミ合金(高純度アルミ、イ号アルミ合金、高カアルミ合金、耐熱アルミ合金など)は軽くて丈夫、熱伝導率にも優れ、加工もしやすいため、電気のケーブルに採用されるケースも増えています。

 

電線の歴史参考サイト

キーワード

ページトップに戻る