ボルタ電池からリチウムイオン電池まで解説。アルミも活躍の「電池の歴史」

2020/03/02

カテゴリー
しさく解体新書
キーワード

現代人の生活に欠かせない「電池」とは

「電池」とは、簡単にいうと物質の化学反応、放射線・温度差・光などの物理反応によって生じるエネルギーを電気エネルギーに変換する装置のことです。時計やおもちゃ、リモコン、ガスや石油機器の自動点火装置といった身近な機器をはじめ、デジタルカメラ、スマートフォン(携帯電話)などのモバイル製品、自動車や二輪車ほか、様々な用途に用いられています。蓄電池や太陽電池など、外から見ただけでは電池が利用されているか否かわかりにくい機器も多いです。もし電池が存在しなかったら、現代人は生活できないといっても過言ではありません。

 

現在、広く用いられているものは化学反応による「化学電池」で、使い切りの「一次電池」、充電して繰り返し使える「二次電池」など、大きく分けて約40種類。さらに大きさや形状などで細分すると約4000種類が存在します。化学電池にはこのほか「燃料電池」があり、物理電池としては「太陽電池」「原子力電池」が知られています。なお、生体触媒(酸素やクロロフィルなど)や微生物を使った「生物電池」、「生物太陽電池」「生物燃料電池」なども研究されていますが、実用化には至っていません。

 

一般的な「化学電池」は、大まかに「プラス極材料」と「マイナス極材料」の2種類の物質と、両極を橋渡しする「電解液」の3種類で構成されており、アルカリ乾電池を例にとると、プラス極材料として二酸化マンガン、マイナス極材料として亜鉛 、電解液に水酸化カリウムといったアルカリ性の水溶液が使われています。

 

電池の始まりは「カエルの筋肉における電気現象」

現代社会にとって必要不可欠な電気を蓄えることのできる「電池」は、いかにして世に送り出されたのでしょう。その登場は意外と最近のことで、1800年、イタリアの物理学者、アレッサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・アナスタージオ・ボルタ(1745年~1827年)によって発明された「ボルタ電池」とされています(電圧の単位「ボルト」は、ボルタの名前をとったもの)。

 

ただ、ボルタが電池を発明するはるか以前から、人類は電気の存在を知っていたようです。2500年前、古代ギリシャの哲学者タレス(紀元前前624年頃~紀元前546年頃)は、マツ類の樹脂の化石である「琥珀」にほこりが付きやすく、それを取ろうと擦ると、さらにごみや糸くずなどが付着することに気付きます。この現象の正体は、摩擦電気など、物体にたまったまま動かない電気=「静電気(静電)」だったのですが、タレスは「磁気」によるものだと考えました。なお、約2,000年以上前、イラクの首都バグダッド郊外のホイヤットラブヤ遺跡から、世界最古のつぼ型電池といわれる「バグダッド電池」が出土していますが、これは電池ではなく、金銀のメッキのために使われていたものだそうです。電圧は1.5~2ボルト。使われた電解液ははっきりしませんが、酢やブドウ酒などではないかと考えられています。

 

静電気が磁気ではないことを発見し、磁気現象と電気現象との区別を確立したのは、16世紀のイタリア人の数学者ジェロラモ・カルダーノ(1501年~1576年。ジローラモ・カルダーノとも)です。その後、イギリス王立医学学校の教授ウィリアム・ギルバート(1540~1603年。エリザベス一世の主治医)が、実験により琥珀には磁力とは違う力「静電気」が働いていることを明確にします。なお、電気と磁石の研究に大きな影響を及ぼしたギルバートは、「電気と磁気の父」とも呼ばれています。

 

ギルバートの発見をきっかけに、17~19世紀の間には様々な実験が行われ、電気研究は飛躍的な進歩を遂げます。1746年にはオランダ、ライデン大学の科学者ピーテル・ファン・ミュッセンブルーク(1692年~1761年)が、ガラス瓶の内側・外側に金属箔を張り、内側の箔には絶縁体の蓋を通し、電極をつけた蓄電器「ライデン瓶(蓄電器)」を発明。1752年にはベンジャミン・フランクリン(1706年~1790年。アメリカの政治家・物理学者)が凧揚げによる実験で、雷の正体が電気であることを発見しています。1791年になると、イタリアの医師・科学者ルイージ・ガルヴァーニ(1737年~1798年)が、解剖したカエルに2種類の金属を当てたところ、足が痙攣することから「カエルの体には電気を作る性質がある(動物電気説)」と発表(ガルヴァーニ電気)。これに対して異議を唱えたのがボルタです。

 

1775年に絶縁体の柄を持つ金属板をエボナイトの盆に載せ、静電気を集める「電気盆」を考案していたボルタは、ガルヴァーニ電気は生物体に関係なく、2種の金属の接触による電流の発生であることを示します。そのため、動物電気説論者との間に論争が勃発。1800年、銅を陽極、亜鉛を陰極とし、希硫酸を電解液とした一次電池「ボルタ電池(電堆)」の発明によって、ボルタの説が勝利を得たのです。

 

乾電池はコーンスターチから生まれた?

ガルヴァーニの実験をヒントに生まれたボルタ電池は発電力が弱く、ごく微量の電流しか流せないという欠点がありました。原因は、正極で発生する水素(H2)が銅板の周囲にたまり、水溶液中のH+(水素イオン)が負極からきたe-(電子)を妨害するため。その結果、電子の受け渡しにトラブルが生じ、電圧が急激に低下する「分極」という現象が生じたのです。

 

1836年、イギリスの化学者・物理学者であるジョン・フレデリック・ダニエル(1790年~1845年)が、ボルタ電池の問題点を改善した「ダニエル電池」を発明します。ダニエルは負極にZn(亜鉛)とZnSO4水溶液、正極にCu(銅板)とCuSO4水溶液を用い、それぞれを素焼き板で仕切った電池を制作。この構造であれば、Zn板から流れたe-(電子)はCu2+が受け取り、単体のCuとなります。生成された物質(Cu)が銅板と同じですから、分極が起こる心配はなく、継続的に電気を得ることが可能になったのです。

 

世界初の実用的な電池である、ダニエル電池の発明から約30年、1868年、フランス人の技術者、ジョルジュ・ルクランシェ(1839年~1882年)が「ルクランシェ電池」を発明します。この電池は正極に炭素棒、負極に亜鉛板、溶液はコーンスターチを混ぜた塩化アンモニウム水溶液のペーストでした。液体を使わないため、持ち運びが容易になったルクランシェ電池は、現在の乾電池の原型になるのです。

 

輸送はしやすくなったものの、ルクランシェ電池の溶液はゲル(ゼリーのような液)状だったため、こぼれることもあったようです。それを解消したのが、1888年、ドイツのカール・ガスナーが作った「ガスナー電池」。基本構造は、ルクランシェ電池と同じで、正極活物質の二酸化マンガンに炭素の粉末を加え、塩化アンモニウムには石膏の粉末を混ぜてペーストにしていました。これにより、横にしても中の液体がこぼれない電池は、「液体の漏れない乾いた電池」ということで、「乾電池」と呼ばれます。ガスナーはドイツで特許を取得。彼の発明は世界初の乾電池となったのです。

 

ガスナーより先に、乾電池を発明していた日本人技術者

日本に電池が伝わったのは、1854年(嘉永7年)。日米和親条約締結のため、再来航したマシュー・カルブレイス・ペリー提督(アメリカ海軍軍人。1794~1858年)が、徳川幕府へ「ダニエル電池」を献上しています。日本人として初めて電池を製作したのは松代藩士で、幕末の学者としても知られる佐久間象山(1811(文化8年)~1864年(元治元年))で、この時の電池は「ダニエル電池」だと考えられています。電池が利用されるようになるのは、明治維新以降のことですが、実はガスナーがルクランシェ電池の改良をしている頃、日本人の青年技術者・屋井先蔵(1864年1月13日(文久3年)~1927年(昭和2年))も同じような研究をしていました。

 

現在の新潟県長岡市に生まれた屋井は、幼いころから科学に興味を持っていたようで、時計店で働く傍ら、永久自動機の研究を志すようになります。そこで東京高等工業学校(現:東京工業大学)を目指すのですが、2度目の受験の際に遅刻してしまい、試験を受けさせてもらえませんでした。それが余程悔しかったのか、屋井は当時主流だったゼンマイ時計ではなく、電気で正確に動く時計の開発に取り組みます。その時、完成したのが、1885年(明治18年)の「連続電気時計」です。ただ、屋井の時計に用いられていた輸入電池はルクランシェ電池などの液体電池(湿電池)で、「薬品が染み出して金具が腐食する」「寒い時期は内容物が凍り使えなくなる」などの欠点がありました。彼は試行錯誤の末、1887(明治20年)年、正極の炭素棒にパラフィンを染みこませ、液漏れしにくい電池=乾電池を開発したのです。

 

屋井はガスナーより先に乾電池を発明したのですが、資金が乏しく、特許出願をすることができませんでした。その後は「屋井乾電池合資会社」を設立。1894年(明治27年)、日清戦争の際、満州の寒さに耐えた軍用乾電池が賞賛されますが、これが屋井のものであったことから、彼の発明は一躍注目を浴びました。その後は発展を続け、屋井は「乾電池王」とまでうたわれるようになったそうです。

 

ノーベル賞受賞のリチウム電池とアルミニウム

充電できる二次電池は、1859年、フランスの電気学者、ガストン・プランテ(1834~1889年)により発明されました。ニッケルカドミウム電池が、スウェーデン人のヴァルデマール・ユングナー(1869~1924年)によって発明されたのは1899年。現在は「リチウムイオン電池」が身近な二次電池として多くの携帯機器で使われています。

 

「リチウムイオン二次電池(LIB)」の原型を開発し、実用化の道を開いたのが、米テキサス大のジョン・グッドイナフ教授、米ニューヨーク州立大のスタンリー・ウィッティンガム卓越教授と共に、先日2019年度ノーベル化学賞を受賞した、日本のエンジニア・研究者の吉野彰博士(1948 年(昭和23年)~。旭化成株式会社名誉フェロー)です。博士はデジタルカメラ、ビデオカメラなど高性能の充電池が求められていた1980年代、負極にカーボン、正極にLiCoO2(コバルト酸リチウム)を使用することにより、現在のリチウムイオン電池の原型となる世界初の二次電池を考案・製作。さらに、正極の集電体にアルミニウム(Al)を使うなどの各種開発を進め、小型・軽量のリチウムイオン電池を実用化しました。吉野博士の発明した電池は、携帯電話やノート型パソコンといったIT機器の世界的普及に大いに貢献したのです。

 

なお、リチウムイオン電池の正極集電体には、正極活物質を保持し、電流を正極活物質に供給する役割がありますが、その材料としてはアルミニウム箔が唯一無二であり他に代わる材料は存在しないとされています。アルミ箔が採用される理由は、「導電性が良好」「電池内でさらに耐食性の高い皮膜が形成される」「アルミニウム箔表面に導電性がある」「低コスト画、入手しやすい」「加工性に優れる」「正極集電体として使用される電位領域では、リチウムイオンがアルミニウム箔にドープしない」などのメリットがあるからです。今後は電気自動車の普及など、リチウムイオン電池にはさらなる広がりが期待されています。

 

参考サイト

キーワード

ページトップに戻る