写真の始まりは化学変化だった! 銀塩写真からはじまる写真の歴史

2020/04/06

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銀塩写真の始まりと発展

人間が目にしたものや感じたものを、平面に描き出す「絵」という形で残すようになったのは、化石人類の一種である「ネアンデルタール人(約10万年前の第四間氷期に出現。主にヨーロッパから西アジアにかけて分布した人類)が生息していた更新世中期から後期だといわれています(諸説あり)。それを裏付けるように、スペインにおいて、6万5000年以上前のものとされる洞窟壁画が、またインドネシアでは、約4万4000年前の壁画が発見されているそうです。

ネアンデルタール人たちが残したとされる壁画には、馬や牛などの動物、先史時代の狩猟などが描かれていました。彼らの脳容積は現代人と変わらず、進んだ旧石器を使用し、埋葬の風習を持ち、呪術的儀式も行っていたといいます。ネアンデルタール人の後に現れたクロマニョン人(後期旧石器時代(約40000~10000万年前)、ヨーロッパ各地で生活していた人類)も壁画を描いており、有名なものにはイノシシや牛、馬といった動物が写実的に描かれた「アルタミラ洞窟(スペイン)」やフランスの「ラスコー洞窟」などがあります。

そのため諸説ありますが、洞窟壁画は当時の環境や社会的状況を知らせるといった、コミュニュケーション手段であり、一方で狩りの成功、動物たちの繁殖を願うことを目的として誕生したのではないかと考えられているそうです。

時代が下り、世界各地で文明が興ると、絵(絵画)の担う役割は多様化していきます。情報伝達や記録、宗教的儀式だけでなく、様々な素材(画材)を用いて、自己表現や装飾、独自世界の創造など、美を追求しようとする、いわゆる「芸術」を意識した絵も描かれるようになっていきました。

「写生用装置」を「カメラ」に変えた人物

文明・文化の発展と共に、絵画にも様々な美術様式が誕生する中で、時代や様式を代表する画家はもちろん、職業画家も増えていきます。しかし、19世紀に登場したある発明が、絵画の世界を脅かすことになったのです。

その発明とは「銀板写真」。カメラの起源である「カメラ・オブスクラ(カメラ・オブスキュラとも)」は、すでに利用されていましたが、この道具は「写真」を撮るものではありませんでした。カメラ・オブスクラとは、「暗い(オブスクラ)部屋(カメラ)」という意味で、壁に開けた小さな穴を通った光が、反対側の壁に届くと、外の景色が映るという光学的原理で、紀元前から知られており、中国・戦国時代の思想家である墨子(紀元前470年頃~紀元前390年頃)やギリシアの哲学者アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年)、紀元前 300年頃の数学者・幾何学者ユークリッド(ギリシア)らは、この仕組みを認識していたといいます。また10~11世紀の物理学者イブン・アルハイサム(965年頃~1039年)は、カメラ・オブスクラの原理を用いた日食観測装置を研究報告書のなかで明確に説明、レオナルド・ダ・ビンチ(1452年~1519年。イタリアの画家、彫刻家、建築家、科学者)のメモにも、この名前が残されています。

初期の「ピンホールカメラ(針穴写真機)」ともいえるカメラ・オブスクラは、日食の観察装置、または針穴の反対側にあるガラスに映る景色を描くための道具でした。16世紀頃にはピンホールの代りにレンズが装着され、17世紀には遠近法による絵を描くための装置として普及。本物そっくりに正確な絵が描けるということで、画家たちが写生用に使っていたそうです。

このカメラ・オブスクラの映像を、光の効果を利用して、保存できないかと考えたのが、後に写真製版の発明者となるジョセフ・ニセフォール・ニエプス(1765年~1833年)でした。彼は、光が当たると黒く変色する銀の塩化物の性質に着目しました。1816年、カメラ・オブスクラに塩化銀を処理した紙を置いて光を当てる実験を行い、部分的ではありましたが、ネガ画像として像を黒く映し出すことに成功したのです。しかし、ニエプスのネガ画像は、時間の経過と共に画面が真っ黒に変色。そこで彼は、画像をそのままの状態で保持する研究を始めます。

その結果、ニエプスが「感光材料(写真感材、感材とも。光や放射線が作る像を定着させるために使用される材料。ガラス、紙、フィルムなど)」に選んだのは、道路舗装に用いられる「アスファルト(土瀝青、地瀝青とも。炭化水素を主成分とする黒色の固体または半固体の瀝青(天然のアスファルト、タール、ピッチなど、黒色の粘着性のある物質の総称。石油精製時の蒸留残留物として得られる石油アスファルトも含む)物質)」でした。光に当たると固くなるアスファルトの性質を利用し、これを銀メッキした金属板に塗って感光板を作成。自分の家から見える景色を撮影しました。ニエプスの考えは的中し、固まらなかった部分を洗い流すと風景が浮かび上がり、1826年、彼は世界で初めて画像を固定する写真「ヘリオグラフィー(「太陽で描く」の意味)」の実現に成功したのです。

ただ、ニエプスの方法で写真を撮影するには、アスファルトが固まるまでに、8時間という、とんでもない時間が必要でした。露光時間(シャッターを開いてフィルムや乾板に光を当てる時間)が長くなると太陽の位置や方向も変わりますし、これほど長時間はじっとしていられませんから、人を撮るのは不可能といえたでしょう。また、鮮明な画像の撮影はまだまだ難しいことでした。

「絵画は死んだ」とまで言わしめた銀板写真の登場

 

 

ニエプスが試行錯誤を繰り返していた頃、同じように、「カメラ・オブスクラの風景を、そのまま絵にできないか?」と考える人物がいました。それはフランスの画家、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1787年~1851年)です。彼は劇場の舞台背景に使う風景画を描くのが専門でしたが、次第に投影した映像を留める方法を模索するようになりました。

ダゲールは写真術の改良研究をしていたニエプスを知り、1829年、写真術の共同研究を行う契約を結びます。ところが4年後の1833年、研究半ばにしてニエプスが急死。それでもダゲールは研究を重ね、1839年、遂に「銀板写真法」を完成させます。これは、よく磨いた銀メッキ銅板を「ヨウ化(沃化)銀(銀とヨウ素の化合物)」で感光化し、これをカメラ・オブスクラにセットして露光。この時点では画像は見えませんが、水銀蒸気中で「現像」すると画像が浮かび上がり、食塩水で定着する方法です。ダゲールが、自らの名を冠した写真術「ダゲレオタイプ」は1回の撮影で一枚しか撮れず、感光版自体が写真だったので、焼き増しをすることはできませんでした。しかし、撮影時間は30分に短縮され、非常に鮮明な写真を撮ることが可能になったのです。この時、ダゲールは世界で初めての市販カメラ「ジルー・ダゲレオタイプ・カメラ」も発表。木製の大きな箱型で、画面サイズは今でいう「八つ切り」サイズでした。ダゲレオタイプの発明で、一般の人々でも撮影や現像が可能になり、また、フランスを代表する科学者フランソワ・アラゴ(アラゴ―とも。1786年~1853年)が写真技術の有益性を認めたことから、銀板写真法は次第に広まっていきます。

なお、アラゴはダゲレオタイプをフランス政府に推挙し、これに対して政府は公益のため、ダゲールへ補償として終身年金を支給することで、仕組みや技術を一般に公開。その結果、銀板写真法は19世紀中期、世界中で急速に普及することになりました。

写真が一般化していくことに、打撃を受けたのが絵描きたちです。当時の肖像絵画や風景画などは産業として需要があり、特定の貴族や富裕層、権力者と契約することも少なくありませんでした。当然、職人画家だけでなく、各界の芸術家たちからは反発を受け、フランス政府に「写真を禁止にしろ」と要求した者もいたそうです。同じ世代に、新古典主義を継承したジャン=オーギュスト・アングル(1780年~1867)、仏ロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワ(ドラクロアとも。1798年~1863年)がおり、19世紀の画壇で人気を博したポール・ドラロッシュ(1797年~1856年)は、ため息とともに「今日を限りに絵画は死んだ」という言葉を残しています。

写真の出現で失業した画家もいれば、それまで手作りだった油絵具が、チューブ入り油絵具が商品として販売されるようになったこともあり、写真の修整、彩色といった仕事に転職した者もいたそうです。また写真家に転向した画家もおり、ドラロッシュの弟子だったロジャー・フェントン(1819年~1869年)、ギュスターブ・ル・グレイ(1820年~1884年)は19世紀を代表する写真家として知られています。

焼き増しを可能にした「ネガ/ポジ方式」

実はダゲールと同じ時期、カメラ・オブスクラを使った写真術を研究するイギリス人が、独自の方法を生み出していました。その人物は、科学者のウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(1800年~1877年。トルボットとも)で、彼もカメラ・オブスクラの景色を写し留めたいと考えていたのです。

1833年から研究を開始したタルボットは、1835年にダゲールとは異なり、銀板ではなく、上質の紙を使った紙ネガの作成に成功します。ただ、「もっと良いものを作りたい」と思ったタルボットは、自分の発明を公にせず研究を続けたのです。そんな彼が発表する気になったのは、ダゲレオタイプのことを耳にしたからだといいます。1841年、タルボットは「カロタイプ(後に発明者にちなんで「タルボタイプ)」に改称」)をイギリスの学会に発表。彼の写真術は、硝酸銀(銀を硝酸に溶かして得られる無色透明な板状結晶)溶液を塗った紙をヨウ化カリウム溶液に浸し、ヨウ化銀を生成させて湿潤状態のまま撮影。硝酸銀と酢酸と没食子酸(茶・没食子・五倍子ふしなどに含まれ、またタンニンを加水分解しても得られる無色針状の結晶。収斂薬・還元剤・青インクの製造原料となる)の混合溶液で現像を行い、臭化カリウム溶液で定着してネガ(陰画)を得るものでした。このネガを単塩紙に密着、太陽光で焼きつけてポジ(陽画)を作るタルボットの方法(ネガ/ポジ方式)により、同じ画像を何枚も作り出すことができるようになったのです。

なお、タルボットは1844年から1846年にかけて、世界初の写真集「自然の鉛筆(Pencil of Nature)」を自費出版するなど、以降も写真の発展に大きく貢献しました。

 

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